なつぞら-前島光子(比嘉愛未)のモデルは中村屋の相馬黒光
NHKの朝ドラ「なつぞら」のモデルとなった前島光子(比嘉愛未)のモデルは、パン屋「中村屋」の創業者・相馬黒光です。
■なつぞら-前島光子(比嘉愛未)のネタバレ
前島光子(比嘉愛未)は東京・新宿にあるパン屋「川村屋」のマダムで、奥原咲太郎(岡田将生)の借金の保証人になっていた。
しかし、奥原咲太郎(岡田将生)が姿をくらませたため、前島光子(比嘉愛未)は奥原咲太郎(岡田将生)の借金をかぶった
騙されたと思った前島光子(比嘉愛未)は、奥原咲太郎(岡田将生)を探しに来た奥原なつ(広瀬すず)を利用して、奥原咲太郎(岡田将生)を捕まえようとするのだが・・・。
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■前島光子(比嘉愛未)のモデル
前島光子(比嘉愛未)のモデルは、東京・新宿のパン屋「中村屋」の創業者・相馬黒光です。
相馬黒光は明治9年(1876年)に宮城県仙台市で、旧仙台藩士・星喜四郎の3女として生まれた。星家は没落して貧乏だった。
相馬黒光は小学校を卒業後、学費の安いミッションスクールの宮城女学校に進学したが、先輩の起こしたストライキに連座して自主退学し、横浜のフェリス英和女学校へ入学した。
さらに、相馬黒光は、文学に傾倒するようになったため、明治女学校に転校。地位向上を目指して「女学雑誌」を創刊すると、校長の巖本善治は「野心的で光り輝く才能を少し黒く隠すように」と、「黒光」というペンネームを与えた。
相馬黒光は、フェリス英和女学校を卒業後、養蚕事業家のクリスチャン相馬愛蔵と結婚し、相馬愛蔵の故郷・安曇野に移り住んだが、安曇野での生活は退屈だったので、相馬黒光は心労で体を壊し、上京を願い出た。
相馬黒光と相馬愛蔵は、長女・相馬俊子を置いていくことを条件に上京が認められ、上京すると、普及しつつあったパンに目を付け、東京の本郷(東京大学の前)にあったパン屋「中村屋」を定員ごと購入した。
パン屋「中村屋」は、学生を相手にした商売で繁盛した。さらに、シュークリームを参考にして開発したクリームパンが大ヒットし、明治40年に東京・新宿に支店を出した。
このとき、道路を隔てた真向かいにあったのが「紀伊國屋」だった。この「紀伊國屋」が後に本屋「紀伊國屋書店」になるのだが、まだ炭や薪を売っていた。
さらに、相馬黒光は、明治42年に新宿駅近くに本店を出した。
その後、相馬黒光は、インドから亡命してきた独立運動家ラス・ビハリ・ボースを匿い、長女・相馬俊子と結婚させる。
そして、相馬黒光は昭和2年にパン屋「中村屋」に喫茶店を開設し、ラス・ビハリ・ボースから教わった純インド式のカリーを出した。
朝ドラ「なつぞら」のなかで、前島光子(比嘉愛未)がパン屋「川村屋」で出している「カレー」を「カレー」ではなく、「カリー」と呼ぶのは、こうした実話が元になっているからである。
また、相馬黒光は、ロシアの詩人ワシーリー・エロシェンコを住まわせて面倒をみたことが縁で、パン屋「中村屋」でピロシキを販売した。
その一方で、相馬黒光は、数多くの文化人に交流の場を提供して、「中村屋サロン」を形成した。
■追記
このページでは前島光子(比嘉愛未)のモデルを「中村屋」の創業者・相馬黒光と紹介していますが、ドラマ内で、先代の祖母がパン屋「川村屋」の創業者と判明しました。
このため、前島光子(比嘉愛未)のモデルは、相馬黒光の孫・相馬哲子と言うことになります。
なお、朝ドラ「なつぞら」のモデルやネタバレについては「なつぞら-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
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コメント欄
銀座ではなく新宿では?
ご指摘ありがとうございます。新宿に訂正しました。
ドラマの中では、前島光子は相馬黒光らしき人物の孫娘という設定になっており、年齢的にはその方が正しいと思いますが?
おしい!
モデルは、黒光では無く、孫の哲子だと思います。
肖像画で「祖母の先代のマダム」と出ていたのが、黒光です。
ですから、父親がインドの革命家ボースで、母親が黒光の娘俊子です。
彼女の肉親はこの時点(昭和31年)で3人とも亡くなってしまったので、後を継いでいます。
ご指摘ありがとうございます。本文に補足を追記しました。