なつぞら-森田桃代(ももっち)のモデルは保田道世
NHKの朝ドラ「なつぞら」に登場する森田桃代(ももっち)のモデルのネタバレです。
■なつぞら-森田桃代(ももっち)のあらすじ
朝ドラ「なつぞら」に登場する森田桃代(もりた・ももよ)は、高校を卒業後、絵が好きという理由だけで、アニメーションの事は何も分からなかったが、東洋動画に就職して色彩を担当している。
森田桃代(ももっち)は奥原なつ(広瀬すず)の席が隣だったことから、奥原なつ(広瀬すず)から「モモッチ」と呼ばれて仲良くなる。
そして、奥原なつ(広瀬すず)の影響で、服が派手になっていき、アニメーションの魅力に取り付かれていくのだった。
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■なつぞら-森田桃代(ももっち)のモデル
朝ドラ「なつぞら」に登場する森田桃代(ももっち)のモデルは、「やっちん」と呼ばれた保田道世(やすだ・みちよ)です。
保田道世は、宮崎駿が「戦友」と呼び、高畑勲が「同士」と呼んだ、ジブリの色を作った伝説の色彩職人です。
保田道世は昭和14年(1939年)に東京で生まれた。小学校の時は絵が上手かったが、高校時代になると、絵はサッパリだった。
保田道世は石神井高校時代に友達と遊んでばかりだったので、大学を受験しても合格できるような成績では無く、家庭の事情もあったので、進学を諦め、就職することにした。
保田道世は、絵の仕事に就きたいとは思っていなかったが、高校に来ていた東映動画の求人を見つけ、アニメーションが何なのかよく分からないまま、東映動画の試験を受け、昭和34年(1959年)4月に東映動画に入社した。
保田道世は、東映動画のコマーシャル制作部の「仕上げ」に配属されたので、長編アニメには関わってない。また、色彩を手がけるのはもう少し後のことである。
その後、コマーシャル制作部の「仕上げ」が解散したため、保田道世は異動となって、TVアニメ「狼少年ケン」を手がけた。
そして、保田道世は昭和39年(1964年)に労働組合の書記に就任し、労働組合の副委員長・高畑勲や、書記長・宮崎駿と出会い、交流を持つようになる。
その後、高畑勲や宮崎駿が手がける長編アニメ「太陽の王子・ホルスの大冒険」に志願して参加し、トレースを担当した。
保田道世は「太陽の王子・ホルスの大冒険」に参加したことで、仕事についての葛藤と苦悩が生まれ、悩んだ末に、退社を決意した。
朝ドラ「なつぞら」の森田桃代(ももっち)は、奥原なつ(広瀬すず)の影響で服が派手になっていくのだが、モデルとなった保田道世も退社を決意したころから、服装が派手になっている。
さて、保田道世は東映動画を辞めた後、Aプロダクションに入社。その後、宮崎駿と高畑勲も東映動画を辞めて、Aプロダクションに移ってきたので、宮崎駿と高畑勲と共にTVアニメ「ルパン三世」や長編アニメ「パンダコパンダ」「パンダコパンダ・雨ふりサーカス」を手がけた。
その後、保田道世はAプロダクションの労働組合の副委員長に就任したが、宮崎駿と高畑勲が「アルプスの少女ハイジ」を作るために、ズイヨー映像へ移籍してしまう。
保田道世は副委員長の任期が終わると。宮崎駿と高畑勲を追いかけて、ズイヨー映像へ移ろうとしたが、スタジオが遠くなるという理由で止めた。
しかし、放送が始まった「アルプスの少女ハイジ」を観てズイヨー映像へ移籍を迷うようになり、最終的に東映動画を辞めて、ズイヨー映像(日本アニメーション)へ入社し、「アルプスの少女ハイジ」でトレースを手がけた。
さて、「アルプスの少女ハイジ」に平行して、「小さなバイキング」というアニメを制作しており、保田道世は「小さなバイキング」で初めて色指定を担当した。
そして、保田道世は「フランダースの犬」と「母をたずねて三千里」でも色指定を手がけ、宮崎駿の「未来少年コナン」でキャラクターの色彩設定を担当した。
保田道世は、スピードも技術も一流のトレーサーだったが、トレースマシンが主流となり、トレーサーは必要なくなりつつあったので、色彩へ転向する形となった。
その後、宮崎駿は「ルパン三世・カリオストロの城」を手がけるために移籍。高畑勲も移籍して映画「じゃりン子チエ」を手がけた。
保田道世は高畑勲から誘われたが、会社を辞める決心が付かず、高畑勲の誘いを断った。
その後、高畑勲と宮崎駿が「風の谷のナウシカ」を制作することになり、保田道世も「風の谷のナウシカ」に誘われた。
保田道世は会社を辞める決心が付かず、出向という形で「風の谷のナウシカ」に参加し、色指定を担当した。
そして、「風の谷のナウシカ」を終えると、会社に迷惑をかけたこともあり、日本アニメーション(ズイヨー映像)を退社してフリーとなった。
その後、「風の谷のナウシカ」の成功により、スタジオジブリが設立され、保田道世はジブリ第1弾となる「天空の城ラピュタ」に参加し、色指定を担当した。
次回作は、高畑勲の「火垂るの墓」と、宮崎駿の「となりのトトロ」の2本立てということになり、高畑勲と宮崎駿が保田道世を奪い合った。
保田道世は断ることが出来ず、「火垂るの墓」をメーンに色彩設計を務め、「となりのトトロ」では仕上げを担当し、色指定は水田信子に任せた。
しかし、高畑勲の「火垂るの墓」はスケジュールが間に合わなかったので、高畑勲は保田道世に無断で、一部を色を塗らないモノクロのシーンへと変更して、上映を開始した。
すると、色彩設計を務めた保田道世が高畑勲に激怒したので、高畑勲は動揺して謝罪文を送っている。
なお、保田道世は上映開始後も色を塗り続け、出来上がったシーンから差し替えていき、「火垂るの墓」を上映中に完成させた。
そうした一方で、信頼していた絵の具職人の引退から、絵の具の問題が浮上し、保田道世は絵の具の問題を解決するパソコンによるデジタル化に着目した。
宮崎駿は「俺の時代はコンピュータを使わない」と宣言していたが、保田道世の鶴の一声により、スタジオジブリがデジタル化し、平成11年(1999年)上映の映画「ホーホケキョ・となりの山田くん」から、完全デジタルペイントとなった。
以降も保田道世は「千と千尋の神隠し」を初め、数々のジブリ作品を手がけ、平成20年(2008年)上映の映画「崖の上のポニョ」で現役を引退した。
しかし、宮崎駿に引っ張り出され、平成25年(2013年)上映の映画「風立ちぬ」で色彩設計を務めた。
そして、保田道世は「風立ちぬ」を最後にスタジオジブリを退社し、ガン闘病の末、平成28年(2016年)10月5日に死去した。77歳だった。
宮崎駿も「風立ちぬ」を最後に引退したが、その後、引退を撤回。その理由は病床の保田道世に「次回作が見たい」と言われたためとも言われている。
なお、朝ドラ「なつぞら」のあらすじとネタバレは「なつぞら-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
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