なつぞら-大沢麻子(貫地谷しほり)のモデルは中村和子
広瀬すずが主演するNHKの朝ドラ「なつぞら」のアニメーター大沢麻子(マコさん)のモデルは、伝説の美人アニメーター中村和子です。
■なつぞら-大沢麻子(貫地谷しほり)のモデル
大沢麻子(貫地谷しほり)のモデルとなった中村和子は、昭和8年(1933年)4月1日に満州国の旅順で生まれたが、終戦を迎えて山口県へと引き上げてきた。
子供の頃から絵が得意だった中村和子は、山口県の宇部高校を卒業すると、女子美術大学の洋画科へ進学した。
中村和子は、幼少期を満州の大都市で過ごしていたことから、片田舎の山口県の生活は退屈だったため、女子美術大学を卒業しても山口県には帰らず、東京でアルバイトをしていた。
そのようななか、東洋のディズニーを目指して「東映動画(東映アニメーション)」が設立されることになったので、中村和子は面接を受けて「東映動画」のアニメーターに合格した。このとき、女性で採用されたのは中村和子だけだった。
こうして、中村和子は昭和31年に「東映動画」に入社し、日本初の長編カラーアニメーション「白蛇伝」の制作に加わり、女性で初の「セカンド」に抜擢された。
そして、中村和子は長編アニメ映画「少年猿飛佐助」「西遊記」を手がけるとたが、昭和35年(1960年)に広告代理店「萬年社」の穴見薫と結婚して「東映動画」を退社して、絵本作家に転向した。
朝ドラ「まつぞら」では、宮崎駿をモデルとした神地航也(染谷将太)と一緒に仕事をしているが、宮崎駿が東映動画に入社したのは昭和38年(1963年)なので、史実で一緒には仕事していない。
その後、手塚治虫が「鉄腕アトム」をTVアニメ化するときに、夫・穴見薫が明治製菓をスポンサーに付けることに成功し、日本初の国産TVアニメ番組「鉄腕アトム」の制作が始まる。
すると、中村和子は、手塚治虫と仕事をしていた夫・穴見薫から「手塚先生を助けて欲しい」と頼まれて、「虫プロ」へ入った。
さて、中村和子が「虫プロ」に入ると、既に「鉄腕アトム」の第1話を制作中で、中村和子は「ある街角の物語」と「鉄腕アトム」を手がけ、昭和31年1月から日本初の国産TVアニメ番組「鉄腕アトム」の放送を開始された。
その後、中村和子は、昭和39年に「虫プロ」を退社して、専業主婦になった。
しかし、夫・穴見薫から「手塚先生を助けて欲しい」と頼まれ、昭和40年(1965年)放送のTVアニメ「W3(ワンダースリー)」で作画監督に復帰した。
このとき、中村和子は、車好きのアニメーター大塚康生に、新車の「ベレット」を自慢しに行くと、大塚康生は「運転を教えてあげる」と言い、「ベレット」で高速ターンを披露しようとしたが、失敗して新車の「ベレット」を塀にぶつけて廃車にしてしまう。
そこで、大塚康生が夫・穴見薫に謝るため、「虫プロ」へ行くと、「虫プロ」では「W3」のオープニングを描く人が居ないので困っていたので、話を聞いた夫・穴見薫は喜び、大塚康生に「W3」のオープニングを頼んだ。
こうして、大塚康生は、新車を廃車にしたことをチャラにしてもらったうえ、ギャラまでもらい、「W3」のオープニングを手がけたのである。
さて、中村和子は「リボンの騎士」の制作中に、夫・穴見薫が死去。その後、「千夜一夜物語」と「クレオパトラ」を手がけた後、「虫プロ」を退社し、フリーになった。
手塚治虫が方々に推薦してくれたため、フリーになっても仕事は途切れることが無かったという。
一方、手塚治虫は、「虫プロ」が倒産したため、アニメ制作を断念し、漫画に専念していたが、昭和53年(1978年)に再びアニメ制作を開始するため、中村和子らを呼び寄せ、自主制アニメ「森の伝説」の制作を再開する。
そのようななか、手塚治虫の漫画「火の烏」を映画化する話が舞い込み、中村和子は「火の鳥・黎明編」「火の鳥2772」「シュンマオ物語タオタオ」などを手がけた。
なお、中村和子は不眠症で睡眠薬を飲まなければ眠れないため、何日も徹夜をして、男性以上の仕事をしていた。大沢麻子(貫地谷しほり)の顔色の悪そうなメイクは、その辺を反映しているのだと思う。
なお、朝ドラ「なつぞら」のあらすじとネタバレは「なつぞら-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
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