スカーレット-荒木さだ(羽野晶紀)のモデルは鴨居羊子

NHKの朝ドラ「スカーレット」に登場する下着デザイナー荒木さだ(羽野晶紀)のモデルのネタバレです。

■スカーレット-荒木さだ(羽野晶紀)のあらすじ

荒木さだ(羽野晶紀)は戦後、女性のファッションの変化に目をつけ、ブラジャーなどの女性下着のデザインを開始し、下着デザイン会社「荒木商事」の社長となった。

その一方で、荒木さだ(羽野晶紀)は自宅を「荒木荘」に改装しており、川原常治(北村一輝)から頼まれて、川原喜美子(戸田恵梨香)を女中として雇った。

その後、荒木さだ(羽野晶紀)は「下着ショー」を開催したが、「荒木商事」が大手の下着デザイン会社に吸収されたので、独立して下着のデザイナーを育成する仕事を始めた。

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■スカーレット-荒木さだ(羽野晶紀)のモデルのネタバレ

NHKの朝ドラ「スカーレット」に登場する荒木さだ(羽野晶紀)のモデルは、下着メーカー「チェニック」の創業者・鴨居羊子で間違いないでしょう。

鴨居羊子は、大正14年(1925年)に大阪府豊中市で生まれたが、新聞記者だった父親の転勤により、金沢→京城(韓国のソウル)→大阪→金沢と移り住み、金沢で終戦を迎えた。

戦後、父親な死ぬと、生活が出来なくなり、鴨居羊子は父親の友人の頼って大阪へ出て、新関西新聞という小さな新聞社の夕刊に入社した。

その後、読売新聞が大阪へ進出したので、鴨居羊子は読売新聞へ転職して、ファッション担当記者となったが、この転職が失敗だった。新聞記者がサラリーマン化しており、鴨居羊子は直ぐにやる気を無くしてしまう。

鴨居羊子は人見知りが激しかったので、初めての人に会うことが苦痛で、記事が書けなくなり、野良犬と交流をもつようになった。そして、3年ほどで読売新聞を辞めた。

さて、鴨居羊子は、新聞記者時代に東洋レーヨン(東レ)の新素材を取材しており、この新素材に目を付け、退職金3万円で東洋レーションの新素材を購入すると、「チェニック制作室」を立ち上げ、ガーターベルトの制作を開始した。

商売の方は上手くいかなかったようで、鴨居羊子は、新聞記者時代に知り合った産経新聞の司馬遼太郎、毎日新聞の山崎豊子らに助けを求め、司馬遼太郎らのカンパにより、昭和30年12月に大阪のデパート「そごう」で、下着の個展「W・アンダーウエア展」を開催する。

このころ、ブラジャーは普及しておらず、女性はコルセットにズロースという感じで、下着といえば、「白」が相場だった。

このような時代に、鴨居羊子は「W・アンダーウエア展」で、生地面積の小さい「スキャンティー」や色とりどりの「パンティー」などを発表して、世間の度肝を抜き、新進気鋭の下着デザイナーとしてデビューした。

そして、翌年の昭和31年に1坪(2畳)の部屋を借りて事務所として、「チェニック制作室」を創業した。

鴨居羊子は、日本製品の「安かろう悪かろう」から脱却するため、高級路線をとり、石津商店(ヴァンヂャケット)の石津謙介の紹介で、同年5月に阪急百貨店へと進出する。

そして、雑誌「中央公論」で「下着ぶんか論」を発表する一方で、昭和32年5月には鴨大阪南の映画館「スバル座」で、下着ショーを開催した。

当時の下着ショーは、男子禁制で、女性に下着の機能を説明したり、下着の付け方を教える「教室」のようなものだった。

しかし、鴨居羊子は、大勢の人に見てもらうため、映画館で映画のアトラクションとして下着ショーを開催した。

しかも、大阪で流行していた「ヌード喫茶」のショーをヒントにしていたので、従来の下着ショーではなく、現在のファッションショーのような下着ショーだった。

そして、鴨居羊子は東京の百貨店にも進出を果たし、積極的に下着ショーを開催して、下着デザイナーとしての地位を確立したのだった。

さて、鴨居羊子は順調に売り上げを伸ばし、昭和33年に資本金100万円で、「チェニック株式会社」を設立し、昭和44年には資本金1000万円に増資した。

しかし、やがて、鴨居羊子は芸術家と会社の間で苦悩するようになり、ワコールなどの大手に押されて経営が悪化してしまう。

さらに、母親の死や、画家だった弟・鴨居玲の自殺、恋人だった森島瑛が結婚していた事が判明。自身も病気で入院するなど、晩年は苦悩の連続だった。

結局、事実上の夫だった森島瑛がチェニックを去り、鴨居羊子は身の回りの世話をしてくれていた牛島龍介を後継者に選んだ。

そして、退院後、鴨居羊子は自宅で静養していたが、平成3年3月18日に脳内出血で死んだ。

■荒木さだ(羽野晶紀)とモデルの解説

朝ドラ「スカーレット」に登場する荒木さだ(羽野晶紀)は、ブラジャーのデザイナーだが、モデルはチェニックの鴨居羊子で間違いないでしょう。

鴨居羊子の活躍を簡単に紹介するのは難しいのですが、秘められていた女性の下着を解放し、女性の下着をカラフルにしたのが、鴨居羊子です。

しかし、ド派手な下着は簡単に受け入れられた分けではなく、30歳以上の女性からは総スカンを食らいました。

女装の編集長で有名な雑誌「暮しの手帖」の花森安治も、「婦人を娼婦にする気か」と鴨居羊子を批判しています。

また、鴨居羊子は、男性関係も開放的だったようで、旅先での出会いを考えて、海外旅行は身近な女性とか行かず、1人の男性に縛られたくないので、結婚しなかったと言われています。

なお、朝ドラ「スカーレット」の各モデルのネタバレは「スカーレット-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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