スカーレット-川原武志(伊藤健太郎)のモデルは神山賢一

NHKの朝ドラ「スカーレット」に登場する川原武志(伊藤健太郎)のモデルのあらすじとネタバレです。

■スカーレット-川原武志(伊藤健太郎)のあらすじ

川原武志(伊藤健太郎)は、川原喜美子(戸田恵梨香)の長男で、小さい頃から喜美子の工房に通い、陶芸に慣れ親しんでいたが、将来、進む道に迷っていた。

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■川原武志(伊藤健太郎)のモデルのネタバレ

川原武志(伊藤健太郎)のモデルは、陶芸家・神山清子の長男・神山賢一です。

モデルとなる神山賢一は、昭和36年(1961年)2月16日に滋賀県信楽町で、信楽焼の陶芸家・神山清子の長男として生まれた。

神山賢一は、モトクロスバイクが好きな少年だったが、母親が陶芸家だったことから、陶芸の道を目指し、信楽工業高校(信楽高校)の窯業科へと進んだ。

その後、神山賢一は信楽窯業試験場を経て、母・神山清子の元で信楽焼の陶芸家として活動を始めた。

母・神山清子が「信楽自然釉」の第1人者だったことから、神山賢一は対抗して、釉薬の研究をし、「天目茶碗」の制作に励んだ。

神山賢一は陶芸家として将来を嘱望されていたが、29歳の時に「慢性骨髄性白血病」と診断された。

神山賢一は29歳の誕生日の数日後に腰の痛みを訴えて病院へ運ばれ、平成2年(1990年)2月に「慢性骨髄性白血病」と診断され、骨髄移植をしなければ死ぬと、余命宣告をされた。

神山賢一は結婚を約束していた女性が居たが、白血病になったことを理由に女性と別れた。

まだ、日本に公的な骨髄バンクは存在していなかったが、白血病に関しては名古屋は進んでおり、名古屋に民間の「東海骨髄バンク」が存在するのみだった。

さて、兄弟でHLAが適合する確率は約25%だが、神山賢一は姉・神山久美子とのHLAが一致しなかったため、神山賢一の知人が「神山賢一君を救う会」を発足し、募金とドナーを募集した。

神山清子も、神山賢一と親子展を開いて、ドナーの募集を訴え、4000人のドナーが集まったが、適合者は見つからなかった。

その一方で、全国に白血病患者が、我々にも募金を使う権利があるとして、HLAのデーターを送ってきたので、神山賢一は他の白血病患者も救うことにして、骨髄バンク運動を開始する。

しかし、当時は検査費用1万3500円が自腹だったため、「神山賢一君を救う会」は莫大な借金を抱えて解散し、神山清子は借金の返済を続けた。

さて、今回の一件で、全国各地の救う会がHLAのデータを共有していない事が判明し、全国各地の「救う会」の拠点となる「骨髄バンクと患者を結ぶ会」が東京で発足すると、神山賢一が会長に就任した。

その後、神山賢一は急性白血病と診断されたため、叔母・静子から骨髄移植を受けた。叔母・静子はHLAが完全には一致していない「二座不一致」だったが、完全に一致していなくても、白血病が治るケースもあった。

神山賢一は移植手術を受けて回復に向い、平成3年(1991年)12月に、念願の「骨髄移植推進財団(骨髄バンク)」が設立されたが、神山賢一は平成4年(1992年)2月に白血病を再発してしまう。

母・神山清子は神山賢一に献体登録することを提案し、2人で献体登録すると、神山清子が入院前に作っていた壺を「信楽自然釉」で焼き、病室へ持って行った。

しかし、もう神山賢一は壺を持つ力も無く、目から出血していたので、血の涙を流していた。

その後、神山賢一は平成4年(1992年)4月21日に神山清子は子守歌を聞きながら死去した。神山賢一は31歳だった。

■注釈
酒田圭介(溝端淳平)が小児科の医師を目指していると言っていたので、川原武志(伊藤健太郎)とどのように関わってくるのかが注目ですね。

なお、朝ドラ「スカーレット」のモデルやネタバレは「スカーレット-あらすじとモデルとネタバレ」をご覧ください。

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