朝ドラ「エール」-双浦環(柴咲コウ)のモデルは三浦環

朝ドラ「エール」に登場する双浦環(ふたうら・たまき)の実在のモデルのネタバレです。

■エールの双浦環(柴咲コウ)のあらすじ

双浦環(柴咲コウ)は、世界的なオペラ歌手で、朝ドラ「エール」の主人公・関内音(二階堂ふみ)は双浦環に憧れ、声楽の道を志します。
エールの双浦環と三浦環

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■浦環(柴咲コウ)のモデルは三浦環

三浦環は、明治17年(1884年)2月22日に東京府東京市京橋区で、柴田孟甫の娘として生まれました。幼少期から日本舞踊や長唄などを習っており、子供の頃から声を褒められてしました。

そして、東京女学館で、憧れの音楽教師・杉浦チカに音楽家に成ることを勧められ、東京音楽学校を目指したのですが、父・柴田孟甫が「娘を西洋の芸者にするつもりはない」と許可してくれませんでした。

そこで、三浦環は、父親が勧める縁談を受け入れることで、東京音楽学校への進学が許されました。

こうして、三浦環は、16歳で1人目の夫となる軍医・藤井善一と結婚し、東京音楽学校に入学して、滝廉太郎や幸田延に師事しました。

そして、三浦環は、明治36年7月23日、日本人による初のオペラ公演に出演して大成功して、メディアからも注目されるようになりました。

東京音楽学校を卒業後は、研究科に進んで声楽を研究する一方で、授業補助として声楽を教えながら、レコードも吹き込み、音楽家としても活躍しました。

しかし、夫・藤井善一が転勤を機に、妻の三浦環に引退を迫ります。夫・藤井善一は帰宅しても、いつも妻が仕事で居ない事を不満に思っており、妻を引退させて世話女房にしたかったのです。

三浦環は、歌か夫の選択を迫られ、苦悩した末に歌を選び、21歳の時に1人目の夫・藤井善一と離婚しました。

結婚期間は5年間だったのですが、夫の単身赴任もあったので、実質的な夫婦生活は2年間でした。子供も居ませんでした。

既に三浦環はメディアから注目される立場になっており、同僚教師との不倫が離婚の原因だと噂するメディアもあり、この離婚はゴシップ報道されて世間から注目されました。

さて、三浦環はスレンダーで美人だったため、離婚後、大勢の男性から求婚されたのですが、芸術に理解のある医師・三浦政太郎と交際を開始します。

しかし、この交際が職場で大問題となり、2人とも職場を辞めるなければならなくなったので、2人は結婚してドイツ留学することにしました。

こうして、三浦環は、29歳の時に三浦政太郎と結婚してドイツへと渡るのですが、間もなく第1次世界大戦が始まったため、ドイツを逃げ出してイギリスへと向かいました。

そして、三浦環は、イギリスで世界的な指揮者ヘンリー・ウッドに認められ、オペラ歌手としてデビューします。

イギリスで日本人がデビューするのは初めてだったため、大きな話題となり、オペラ「蝶々夫人」に主演するチャンスに恵まれました。

「蝶々夫人」は日本をテーマとしたオペラなので、初めて日本人が「蝶々夫人」に主演するということで、話題となり、三浦環の「蝶々夫人」は大ヒットし、アメリカから招かれ、アメリカへと渡ります。

そして、アメリカでも「蝶々夫人」が大ヒットし、各地で「蝶々夫人」を公演して、日本で最初の世界的なプリマドンナとなりました。

夫の三浦政太郎は帰国するのですが、三浦環は一時帰国した後、再びアメリカへと戻り、世界的なプリマドンナとして活躍し、別居を続けました。

やがて、三浦環は、当たり役の「蝶々夫人」を止め、愛人フランケッティが作ったオペラ「浪子さん」を上演するようになります。

ところが、三浦環は、弟子に愛人フランケッティを寝取られてしまい、愛人フランケッティが弟子と結婚したため、「浪子さん」を封印し、再び「蝶々夫人」を上演するようになります。

その直後、夫の三浦政太郎が死ぬのですが、三浦環は帰国せず、巡業を続け、「蝶々夫人」の2000回出演を機に、日本に永住することに決め、51歳の時に帰国しました。昭和10年11月の事です。

すると、日本国内では、朝ドラ「エール」のモデル古関裕而の初ヒット曲「船頭可愛いや」が流行していました。

古関裕而は、全くヒット曲が出ず、日本コロムビアをクビになりかけたりしていたのですが、ようやく昭和10年に作曲した「船頭可愛いや」が初ヒットしたのです。

すると、三浦環は「船頭可愛いや」を聴いて気に入り、古関裕而に「船頭可愛いや」をレコードに吹き込みたいと頼み、レコードに吹き込みした。

古関裕而は、妻の古関金子が三浦環の大ファンだったので、大喜びし、「月のバルカローラ」をプレゼントすると、「月のバルカローラ」もレコードに吹き込んでくれました。

こうして、古関夫婦は、三浦環と交流を持ち、一緒に相撲を観戦したエピソードなどが残っています。

やがて、戦争の影響で戦時歌謡が流行すると、古関裕而は「露営の歌」「暁に祈る」などのヒット曲を出し、一流の作曲家へと躍進します。

三浦環も音楽活動を続け、慰問なども行っていたのですが、戦時中の疎開生活で体重が激減して痩せていきました。

戦後、三浦環は音楽活動を再開するのですが、急激に衰えていき、昭和21年(1946年)5月25日に癌で死去しました。62歳でした。

古関裕而の妻・古関金子は、三浦環の意思を引き継いで声楽を再開し、古関裕而が作ったオペラ三部作に出演するのですが、古関裕而の仕事が忙しいことや、子育ても忙しいので、オペラ三部作を最後に声楽から引退しました。

なお、「エール」のモデルやネタバレは「朝ドラ『エール』のモデルとあらすじとネタバレ」をご覧ください。

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