スカーレット-骨髄献血と骨髄バンクの歴史とネタバレ

朝ドラ「スカーレット」のモデルは、骨髄バンク設立に貢献した神山清子なので、「スカーレット」では描かれないであろうエピソードを紹介します。

■骨髄献血と骨髄バンクの歴史とネタバレ

「スカーレット」のモデルとなった神山清子が骨髄バンクの設立者という扱いをしているサイトもあるが、神山清子の長男・神山賢一が白血病を発症した平成2年(1990年)の時点で、既に骨髄バンク運動は始まっていた。

患者側で骨髄バンク運動を始めたのは白血病患者の母・橋本明子で、橋本明子が昭和62年(1987年)に東京で「全国骨髄バンクの早期実現を進める会」を設立した。

これが骨髄バンク運動の始まりであり、骨髄バンクの祖だが、ドナーの募集はしていなかった。

一方、名古屋では、元白血病患者の大谷貴子が、昭和63年に「名古屋骨髄献血希望者を募る会」を発足し、ドナーの募集を開始した。

既に海外では骨髄バンクが発足しており、「ドナー」や「バンク」と言った言葉は使用されていたが、一般人には馴染みが無いため、大谷貴子は「骨髄献血」という言葉を使った。

アメリカでは献血の時にドナー登録を呼びかけており、大きな成果を上げてたので、「骨髄献血」という言葉にしたのだと思われる。

そして、「名古屋骨髄献血希望者を募る会」が発展し、平成元年(1989)に名古屋で民間の「東海骨髄バンク」が設立され、骨髄バンク運動は全国的に活発化した。

国の方は骨髄バンクへの対応が遅れていたのだが、民間で「東海骨髄バンク」が設立されたため、国としても対応せざるを得なくなったようだ。

一方、東京の「全国骨髄バンクの早期実現を進める会」も、一足遅れでドナーの募集を開始した。

そのようななか、川原武志(伊藤健太郎)のモデルとなった神山賢一は、平成2年に白血病を発症。知人が「神山賢一君を救う会」を発足し、ドナー探しを始める。

このとき、神山賢一が名前と白血病を公表したことから、全国の白血病患者が自分のドナーも探して欲しいと言い、HLAのデータを送ってきた。

これが切っ掛けで、全国各地の白血病患者を「救う会」が、バラバラに活動しており、HLAのデーターを共有していない事が判明した。

それもそのはず、まだwindowsは普及しておらず、パソコンと言えばNECの98シリーズで、インターネットも普及しておらず、マニアが「パソコン通信」というチャットをする程度だった。

当然、データベースという概念は無く、HLAのデーターを照合するのも手作業で、膨大な時間がかかっていた。

さて、神山賢一の一件で、全国の「救う会」が情報を共有していないことが判明し、東京で「結ぶ会」が発足した。

神山賢一は「結ぶ会」の会長に就任すると、全国の白血病患者の先頭に立ち、骨髄バンク運動を展開した。

ところで、橋本明子が設立した「全国骨髄バンクの早期実現を進める会」が、平成元年に「全国骨髄バンク推進連絡協議会」へと発展するのだが、橋本明子は協議会を解散させて身を引いた。

このため、直ぐに「全国骨髄バンク推進連絡協議会」が新体制で発足し、骨髄バンク運動の平成3年12月に財団法人「骨髄移植推進財団(骨髄バンク)」が認可された。

そして、「骨髄移植推進財団」が実質的に機能するまでは、各地に設立された民間の骨髄バンクが骨髄バンクの役割を果たし、「骨髄移植推進財団」の稼働にともない、各地の骨髄バンクは「骨髄移植推進財団」に移管された。

ところで、骨髄バンク運動に参加していた神山清子の長男・神山賢一は、適合者が見つからず、HLAが一部一致した叔母から骨髄移植を受けて回復に向かっていたのだが、白血病が再発し、平成4年(1992年)4月に死んだ。

これが朝ドラ「スカーレット」では描かれることのない「骨髄献血」という言葉に隠された歴史なのである。

当時、問題になっていた脳死移植などの影響で、骨髄移植の事を誤解している人が多かったため、「骨髄移植推進財団」の設立後も、しばくは「骨髄献血」「骨髄提供」という言葉が使用されていた。

なお、朝ドラ「スカーレット」のあらすじやネタバレは「スカーレット-モデルとあらすじとネタバレと感想」をご覧ください。

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