エール-コロンブスレコードのモデルは日本コロムビア
NHKの朝ドラ「エール」に登場するレオコード会社「コロンブスレコード」の実在のモデルと実話を紹介します。
■エール-コロンブスレコードのモデルのネタバレ
古山裕一(窪田正孝)は、関内音(二階堂ふみ)と結婚した後、上京して「コロンブスレコード」の専属作曲家となります。
この「コロンブスレコード」の実在するモデルは、レコード会社「日本コロムビア」です。
「日本コロムビア」は、明治43年に神奈川県で「日本蓄音機商会」として創業し、昭和3年に「日本コロムビア」へと社名を変更しました。
さて、古山裕一(窪田正孝)のモデル古関裕而は、川俣銀行で働いた時にイギリスの作曲コンクールに応募し、「かぐや姫」など5曲が2等に選ばれたことにより、5年間のイギリス留学のチャンスを得ます。
その一方で、古関裕而は、新聞報道を見て手紙を送ってきた愛知県豊橋市の古関金子と文通を開始し、直ぐに恋愛に発展しました。
写真を交換すると、古関裕而はお風呂以外は古関金子の写真を肌身離さずに持ち歩くほど、古関金子の事を愛していました。
そのようななか、古関裕而は川俣銀行を辞めてイギリス留学の準備をしていたのですが、自分がイギリスに行けば、古関金子との関係はどうなってしまうのだろうかと悩みます。
そこで、古関裕而は福島県から、愛知県豊橋市へ行き、古関金子に初めて会い、古関金子にプロポーズをすると、そのまま新婚旅行に出て、福島県に連れ帰り結婚しました。
(古関裕而が古関金子と結婚する経緯は「エール-関内音(二階堂ふみ)の結婚相手と実話のネタバレ」をご覧ください。)
2人の交際は文通だったので、誰も2人が交際している事を知らず、古関裕而と古関金子の結婚は周囲の人を驚かせました。
ところが、2人の結婚後、古関裕而のイギリス留学の話しが無くなります。この理由は分からないのですが、イギリス留学の話しは一切出てこなくなります。
しかし、古関裕而は既に川俣銀行を辞めているので、生活のために音楽家として生計を立てるため、レコード会社の「ビクター」や「日本コロムビア」に楽譜を送りました。
そのようなかか、「日本コロムビア」の顧問・山田耕搾が古関裕而を推薦してくれたので、古関裕而は古関金子を連れて上京し、昭和5年に「日本コロムビア」の専属作曲家になりました。
そして、古関裕而と同じ時期に「日本コロムビア」の専属作曲家になったのが、木枯正人(野田洋次郎)のモデルとなる古賀政男です。
なんと、「日本コロムビア」は、2人を競わせて、売れた方を残そうと思い、古関裕而と古賀政男の2人を専属作曲家に採用したのです。
その結果、古関裕而と古賀政男は良き友、良きライバルとして切磋琢磨するのですが、古賀政男は「酒は涙か溜息か」を大ヒットさせ、ヒット曲の出ない古関裕而は契約解除の危機を迎えます。
しかし、古賀政男が「日本コロムビア」に「芸術家にスランプはつきものだ。それを理由に契約を左右されたら、安心して作曲出来ない」と言って契約解除を抗議してくれたので、古関裕而は「日本コロムビア」に残る事が出来ました。
それでも、ヒット曲を出さなければならないという状況に追い詰められた事には変わりがなく、古関裕而は起死回生のため、作詞家・高橋掬太郎と一緒に茨城県の潮来(いたこ)を訪れ、昭和9年に「利根の舟歌」を作曲します。
そして、この「利根の舟歌」が「日本コロムビア」に所属して以来の初ヒットなり、古関裕而はようやく面目を保ちます。
その後、昭和10年の「船頭可愛いや」が大ヒットすると、「日本コロムビア」の社長は大喜びして、古関裕而は累積赤字を帳消しにし、レコードの1枚目から印税を払うことにしました。
この「船頭可愛いや」は、双浦環(柴咲コウ)のモデルとなった世界的なオペラ歌手・三浦環もレーコードに吹き込んでいます。
ちなみに、第2次世界大戦のとき、日本のレコード製造工場は空襲を受けて壊滅しました。唯一、焼け残ったのが「日本コロムビア」のレコード工場だけだったので、終戦直後の国産レコードは全て「日本コロムビア」の工場で製造されました。
なお、朝ドラ「エール」の原作やネタバレは「朝ドラ「エール」のモデルとあらすじとネタバレ」をご覧ください。
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