朝ドラ「エール」-山藤太郎(やまふじ・たろう)のモデルは藤山一郎

NHKの朝ドラ「エール」に登場する歌手・山藤太郎(柿澤勇人)のモデルのネタバレです。

■エール-山藤太郎のモデルのネタバレ

朝ドラ「エール」に登場する歌手・山藤太郎(柿澤勇人)は、慶應義塾学校を卒業後、音楽学校で声楽を学び、お金を稼ぐためにコロンブスレコードの歌手となり、流行歌を歌うアルバイトを始めるという役どころです。

山藤太郎(柿澤勇人)の実在のモデルは、「酒は涙か溜息か」「東京ラプソディ」「青い山脈」「長崎の鐘」を大ヒットさせた歌手・藤山一郎です。

画像の左側が山藤太郎(柿澤勇人)で、右側がモデルの藤山一郎です。似ている画像を探したということもあるのですが、モデルに似ているキャストを選んでいる感じがします。

山藤太郎とモデル

さて、モデルの藤山一郎(本名は増永丈夫)は、明治44年(1911年)4月8日に東京府東京市日本橋区蛎殻町で、モスリン問屋「近江屋」の3男として生まれました。裕福な家庭でした。

古山裕一(窪田正孝)のモデル古関裕而が明治42年8月生まれなので、藤山一郎の方が2歳年下となります。

藤山一郎は、親戚の作曲家・山田源一郎が「女子音楽学校」を設立していたので、子供の頃から「女子音楽学校」へ通い、ピアノや音楽を学び、慶應義塾普通部(中学校)を卒業すると、昭和4年に東京音楽学校の声楽部へ進学しました。

しかし、昭和恐慌の影響を受けて、実家「近江屋」は、借金が3万8000円に膨れ上がり、倒産していまいます。1000円で家が建つ時代なので、借金の額は現在の価値で数億円というところでしょう。

そこで、藤山一郎は、家計を助けるため、日本コロムビアで楽譜を複写するアルバイトを始め、楽譜の複写を通じて、色々な作曲家の技法を学びました。

そのようななか、日本コロムビアから、レコードの吹き込みを頼まれました。

藤山一郎は、バイト料が良かったので、レコードに歌を吹き込んだのですが、吹き込んだ後で、レコードに名前が載ると言われて驚きました。

東京音楽学校は校則で校外演奏を禁止しており、レコードの吹き込みは校則違反で、先輩の佐藤千夜子は在学中に「東京行進曲」を吹き込んで中退していたのです。

そこで、「藤山一郎」という偽名を考えたのですが、結局、レコードは発売されませんでした。

しかし、次々と仕事が来て、藤山一郎は瞬く間に40曲以上を吹き込んで、荒稼ぎをしていました。

すると、日本コロムビアから、専属歌手よりも多いのは困ると言われ、何度も芸名を変えさせられました。

そのようななか、藤山一郎は古賀政男の「キャンプ小唄」を吹き込み、続いて、「酒は涙か溜息か」と「丘を超えて」を吹き込みました。

藤山一郎は、吹き込み料だけで、サラリーマンの年収ほど稼ぎ、全て実家の借金返済に充てていたのですが、バイト料は1曲15円の固定なので、曲が売れようと、売れなくても関係ありませんでした。

学校にレコードの吹き込みを知られると退学になるため、藤山一郎はレコードが売れないで欲しいと願っていたのですが、古賀政男が作曲した「酒は涙か溜息か」が爆発的にヒットしてしまいます。

日本にある蓄音機が20万台だった時代に、「酒は涙か溜息か」のレコードは100万枚も売れてしまったのです。

当然、世間の注目は歌手の藤山一郎に集まるのですが、校外演奏は校則違反なので、藤山一郎は表舞台に出る事が出来ません。舞台の袖から、姿を隠して歌うということもありました。

そのようななか、東京音楽学校に「藤山一郎の正体は御校の増永丈夫だ」というネタバレの投書があり、校則違反が発覚してしまいます。

藤山一郎は退学のピンチを迎えたのですが、バイト料は実家の借金返済に充てられており、藤山一郎は1円も受け取っていないとして、クラウス先生や友人が退学処分に反対したほか、新聞までもが藤山一郎を応援する記事を書いたので、退学は免れ、1ヶ月の停学処分となりました。

しかも、この1ヶ月間は夏休みにあたり、事実上の処分無しという温情判決となりました。

このとき、藤山一郎は「影を慕いて」を収録済みだと偽り、「影を慕いて」を収録してレコードを発売し、停学処分が開けると、レコードの吹き込みを辞め、学業に専念しました。

その一方で、藤山一郎の正体が世間に知れ渡ったので、借金取りが強引な取り立てを止め、「妻がファンなんです」と言ってサインを貰いに来るようになりました。

さて、ビクターが実家の借金を知り、毎月、100円を支援してくれていたのですが、日本コロムビアからは何の連絡もありませんでした。

このため、東京音楽学校を卒業した藤山一郎は、日本コロムビアに見切りを付け、月給100万円に2%の印税を提示してくれたビクターの専属になりました。

藤山一郎は自信満々だったのですが、ヒット曲が出ないため、ビクターとの3年契約を終えると、テイチクに移籍していた古賀政男から熱烈なオファーを受け、テイチクに移り、古賀政男とのゴールデンコンビを復活させました。

そして、古賀政男とのコンビで、「東京ラプソディ」などを大ヒットさせ、実家の借金を全て返済しました。

その後、古賀政男がテイチクと対立して日本コロムビアへと移籍したので、藤山一郎も日本コロムビアへと移籍したのですが、戦争の影響で戦時歌謡が流行すると、音楽の方向性の違いから、古賀政男とは疎遠になり、服部良一や古関裕而とコンビを組むようになります。

その後、藤山一郎は、古山裕一(窪田正孝)のモデル古関裕而が作曲した「海の進軍」「英國東洋艦隊潰滅」などの戦時歌謡を歌い、戦地慰問にも参加していたのですが、インドネシアで終戦を迎え、捕虜となりました。

捕虜生活を経て昭和21年に無事に帰国すると、歌手活動を再開させ、次々とヒット曲を飛ばし、昭和24年には、服部良一の作曲した「青い山脈」を大ヒットさせ、古関裕而が作曲した「長崎の鐘」も大ヒットさせました。

そして、昭和26年の第1回NHK紅白歌合戦に出場して以降、指揮者と歌手を合わせると、43回連続出演しました。

また、昭和27年の東京オリンピックに便乗して「オリンピックの歌」を歌いました。

そして、藤山一郎は昭和29年に日本コロムビアとの契約が切れると、NHKの嘱託となり、昔の名曲を歌う番組「歌謡百年」をヒットさせます。

昭和47年に「日本歌手協会」の会長に就任し、歌手の社会的地位の向上に貢献し、平成4年5月に国民栄誉賞に選ばれ、平成5年8月21日に急性心不全で死にました。

朝ドラ「エール」では、古賀政男が木枯正人(野田洋次郎)として登場するので、山藤太郎(柿澤勇人)は木枯正人とのコンビでヒット曲を連発するという展開になるでしょう。

なお、朝ドラ「エール」のモデルやネタバレは、「エール-原作のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

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