エール-「船頭可愛や」のモデルと古関裕而の実話ネタバレ

NHKの朝ドラ「エール」に登場する歌「船頭可愛や」のモデルと実話のネタバレです。

■エール-「船頭可愛や」のモデルとネタバレ

古山裕一(窪田正孝)のモデル古関裕而は、「船頭可愛や」の前に「利根の舟唄」をヒットさせているのですが、朝ドラ「エール」は「利根の舟唄」を飛ばしているので、今回は実話の全体的な流れを解説します。

古関裕而は、昭和5年に日本コロムビアの専属作曲家となり、「福島行進曲」でレコードデビューしたのですが、「福島行進曲」は全く売れず、それ以降も鳴かず飛ばずで低迷していました。

一方、同期の作詞家・古賀政男は歌手・藤山一郎とのコンビで「酒は涙か溜息か」を大ヒットさせます。

日本コロムビアは、古関裕而と古賀政男を天秤にかけており、売れた方を残そうと考えていました。

このため、ヒット曲の出ない古関裕而は、契約解除の危機を迎えるのですが、妊娠していた妻・古関金子が大きなお腹を抱えて契約継続を懇願したので、契約金は半減という条件で何とか契約解除の危機を免れました。

その後、日本コロムビアは、古賀政男と競わせるため、江口夜詩を迎え入れたので、古関裕而は用済みになります。

古関裕而はヒット曲が出ず、マイナーレーベル落ちしており、再び契約解除の危機を迎えました。

しかし、今度は古賀政男が「芸術家にスランプはつきものだ」と言って庇ってくれたので、再び契約解除の危機を免れました。

ところが、スランプや離婚が重なった古賀政男が、テイチクへと移籍してしまいます。

このため、古関裕而は、日本コロムビアでの立場が一転し、古賀政男の抵抗勢力として、ヒット曲が期待されるようになります。

しかし、ヒット曲を出さなければ、元も子もなく、厳しい立場に立たされていることに違いはありません。

一方、「酒は涙か溜息か」を作詞した高梨一朗太は、「酒は涙か溜息か」の大ヒットを切っ掛けに、函館日日新聞を辞めて上京し、作詞家になったのですが、ヒット曲が生まれずに低迷していました。

そこで、高梨一朗太は昭和9年5月に、古関裕而を誘って茨城県の潮来(いたこ)へ取材旅行に出かけ、2人で「利根の舟唄」を作りました。

「利根の舟唄」が昭和9年8月に発売され、「利根の舟唄」がヒットしたので、高梨一朗太は「取材してよかったね」「また行こうね」と大喜びします。

古関裕而も、「利根の舟唄」が日本コロムビアでの初ヒットとなり、解雇の危機は免れました。

そこで、古関裕而と高梨一朗太のコンビは、翌年の昭和10年に瀬戸内海をイメージした「船頭可愛や」を作りました。

古関裕而はクラシック調で作曲しようとしていたのですが、ディレクターの強い要望で民謡になったそうです。

そして、当時は、芸者出身の歌手が「うぐいす歌手」として活躍しており、下駄屋の女将から歌手になった永井満津子を芸者風に仕立て上げ、「音丸」という芸名を付け、「船頭可愛や」を歌わせました。

すると、「船頭可愛や」が大ヒットします。

「船頭可愛や」の大ヒットに大喜びした社長は、古関裕而の入社以来の負債を帳消しにして、1枚目から印税を付けることを約束しました。

ところで、オペラ歌手は発声の違いから、流行歌を歌う人が少ないのですが、双浦環(柴咲コウ)のモデル三浦環は流行歌も積極的に歌っており、昭和14年に「船頭可愛や」を青レーベルのレコードに吹き込んで発売しました。

これが古関裕而にとって、初の青レーベルとなります。

古関裕而は、三浦環のファンだったので、小躍りして喜び、「月のバルカローラ」を作曲して献上すると、三浦環は「月のバルカローラ」もレコードに吹き込み、青レーベルから発売してくれました。

なお、朝ドラ「エール」のモデルやネタバレは、「エール-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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