朝ドラ「エール」の双浦環(三浦環)とプッチーニの実話のネタバレ

NHKの朝ドラ「エール」の双浦環(柴咲コウ)とプッチーニの実話のネタバレです。

■双浦環(柴咲コウ)とプッチーニの実話

朝ドラ「エール」の双浦環(柴咲コウ)が「プッチーニが見つけてくれた」と言っていたのですが、この台詞が比喩ではなく、言葉通りに、「プッチーニが発掘した」という意味であれば、実話とは事なります。

双浦環(柴咲コウ)のモデル三浦環は、2人目の夫・三浦政太郎と一緒にドイツに留学するのですが、第1次世界大戦の影響で、イギリスへ渡りました。

そこで、三浦環は、世界的に有名な指揮者ヘンリー・ウッドに師事するため、テストを受けるのですが、「私に教えることは無い」と絶賛され、アルバート・ホールの音楽会で、イギリスデビューを果たしました。

イギリスの楽団にデビューした日本人は、三浦環が初めてだったので、一気に話題となり、いつくかの演奏会に出演するようになりました。

そのようななか、ロシア人テナーのウラジミール・ロージンという男性が、三浦環にプッチーニの「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」の主演を持ちかけました。

三浦環は、迷って夫に相談したのですが。夫も応援したくれたので、「蝶々夫人」で主演しました。

プッチーニの「蝶々夫人」は日本人をテーマにしたオペラだったのですが、日本人が「蝶々夫人」で主演したことはありませんでした。

このため、日本人がプッチーニの「蝶々夫人」で主演するということで、大きな話題になり、三浦環が主演した「蝶々夫人」は新聞でも大きく報道され、大成功を収めました。

したがって、「エール」の双浦環(柴咲コウ)は「プッチーニが見つけてくれた」と言っているのですが、実際に三浦環を見つけてくれたのは、ロシア人テナーのウラジミール・ロージンということになります。

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■プッチーニが絶賛したネタバレ

三浦環の「蝶々夫人」はアメリカでも報道され、アメリカからアメリカ巡業の依頼がきました。

イギリスは空襲を受けるようになっていたので、三浦環と夫・三浦政太郎はアメリカへ渡り、三浦環はアメリカで「蝶々夫人」を公演し、一気にスターダムへと載り上がりました。

その後、アメリカでも成功した三浦環は、大正9年にヨーロッパ公演を行い、ローマで「蝶々夫人」を公演しました。

その公演を見ていた作者プッチーニが楽屋へ来て、「マダム・バタフライは三浦の為に作られたようなものだ」と言って絶賛しました。

さらに三浦環は、プッチーニの自宅に招かれ、そこでも、プッチーニから賞賛されます。とにかく、べた褒めでした。

こうして、三浦環の代表作は「蝶々夫人」になるのですが、大正14年に愛人のフランケッティが三浦環のためにオペラ「浪子さん」を作ってくれたので、三浦環は「蝶々夫人」に変えて、「浪子さん」を公演するようになりました。

ただ、ときどき、「蝶々夫人」も公演していたようです。

「浪子さん」は好評だったのですが、「蝶々夫人」に比べると見劣りしたようです。

しかし、昭和5年に、愛人フランケッティ(46歳)は三浦環(46歳)の弟子エセル・ベアード(19歳)と結婚していまいます。

偶然にも昭和5年といえば、古関裕而が古関金子と文通を開始して結婚した年です。

古関裕而と古関金子が熱烈な文通を交換していた頃、三浦環は弟子に愛人を寝取られていたのです。

こうして、愛人を寝取られてしまった三浦環は、帰国することにしたのですが、日本からの電報で夫・三浦政太郎が死んだ事を知ったので、帰国するのを止め、アメリカ巡業へと戻りました。

そして、愛人フランケッティが作った「浪子さん」を封印し、再びプッチーニの「蝶々夫人」を公演するようになりました。

ちなみに、「マダム・バタフライ」の邦題は「蝶々夫人」に統一されているのですが、三浦環は「お蝶夫人」の邦題を好んで使っていました。

なお、ドラ「エール」の各エピソードのモデルや実話については「エールのモデルとあらすじとネタバレ」をご覧ください。

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