ブギウギ-村山愛助(水上恒司)のモデル
趣里が主演するNHKの朝ドラ「ブギウギ」に登場する村山興業の御曹司・村山愛助(むらやま・あいすけ/水上恒司)のモデルのネタバレです。
「ブギウギ」の登場人物のモデル一覧は「朝ドラ「ブギウギ」の実在のモデル一覧」をご覧ください。
「ブギウギ」の村山愛助(水上恒司)
村山愛助(水上恒司)は、大阪の演芸会社「村山興業」の御曹司で、ジャズ歌手・花田鈴子(趣里)の大ファンだった。
2人は運命の出会いを果たし、逆境を乗り越えていき、村山愛助(水上恒司)は花田鈴子(趣里)に大きな影響を与えるのだった。
まだ判明していない部分もあるのですが、村山愛助は花田鈴子の交際相手となる可能性が大きいです。
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「ブギウギ」の村山愛助(水上恒司)のモデルのネタバレ
朝ドラ「ブギウギ」に登場する村山愛助(水上恒司)のモデルは、吉本興業の御曹司・吉本穎右(よしもと・えいすけ)です。
吉本穎右は、大正12年(1923年)10月26日に大阪府で、吉本興業の創業者・吉本泰三の次男として生まれた。母親は吉本せいである。
父・吉本泰三は吉本穎右が生まれた直後に死んでおり、吉本興業は実質的に母親は吉本せいと、せいの弟・林正之助が大きくした。
吉本穎右は吉本家の次男だが、長男が亡くなっているため、実質的な吉本興業の後継者で、北野中学から早稲田大学へと進学し、叔父・林正之助からも帝王学を学んでいた。
吉本穎右は芸能通で、戦前は「スイングの女王」として活躍していた歌手・笠置シズ子のファンだったようだ。
さて、戦時中の昭和18年(1943年)6月28日、吉本穎右は東京から大阪へと帰る途中に、名古屋に立ち寄っており、名古屋の御園座の楽屋で、笠置シズ子を目撃した。
笠置シズ子は、ジャズが敵性音楽になったことから慰問には呼ばれず、地方巡業をしており、仕事で名古屋を訪れていた。
このとき、笠置シズ子も「美眉秀麗な貴公子(吉本穎右)」に気づいたが、2人が会話する事はなかった。
後日、吉本穎右はマネージャーを連れて笠置シズ子の元を訪れて話をして、やがて、お互いの家を行き来するようになった。
このとき、吉本穎右は21歳、笠置シズ子は30歳だったので、笠置シズ子は吉本穎右を弟のように扱っていたが、吉本穎右の方が笠置シズ子を好きだったようで、やがて2人は結ばれるのだった。
その後、空襲によって2人は焼け出されたので、吉本興業の東京支配人・林弘高が借りていたフランス人の家に移り、同居を始めるが、まもなく終戦を迎えるのだった。
終戦を迎えると、吉本穎右は笠置シズ子との結婚に向けて、笠置シズ子との同居を解消し、早稲田大学を中退して吉本興業の東京支社で働き始めた。
一方、笠置シズ子も芸能活動を再開しており、2人は吉本興業に見つからないように交際を続けていた。
そのようななか、吉本穎右は吉本家の資産の整理するため、一度、大阪へ帰る事になり、笠置シズ子は吉本穎右を琵琶湖まで見送った。
その直後に笠置シズ子は妊娠に気付いた。昭和21年(1946年)10月のことである。
昭和22年2月、笠置シズ子はお腹が大きくなっていたが、既に舞台「ジャズカルメン」での主演が決まっていたので、舞台「ジャズカルメン」で主演する。
笠置シズ子は、結婚をしたら芸能界を引退することにしていたので、舞台「ジャズカルメン」を最期に引退し、吉本穎右のために家を購入して、吉本穎右が戻ってくるのを待っていた。
しかし、吉本穎右がいつまで経っても戻ってこない。
一方、大阪に戻った吉本穎右は、風邪を拗らせて様態を悪化させていた。
一度は様態が回復に向かったものの、再び様態が悪化し、昭和22年5月に危篤状態に陥った。
結婚問題については、母・吉本せいが頑なに反対したとようだが、詳しい事情は分からない。
吉本せいの弟・林正之助は、最期に吉本穎右と笠置シズ子を会わせてやろうと思い、船をチャーターして妊娠している笠置シズ子を大阪まで運ぼうとしたが、吉本穎右が笠置シズ子の体を気遣って断った。
一方、東京でも、笠置シズ子は吉本穎右が危篤状態に陥ったという知らせを受けて、吉本穎右に会いに行こうとしたが、医師から「臨月の体で会いに行けば、穎右を不安にさせる」と止められたので、断念した。
こうして、吉本穎右は最期に笠置シズ子に会うこと無く、昭和21年5月19日に西宮の吉本邸で死去した。
吉本穎右は、子供のための預金と、男なら「穎造(えいぞう)」女なら「エイ子」と名付けるように遺言を残しており、笠置シズ子に通帳と吉本穎右の遺言が伝えられた。
笠置シズ子は、昭和22年(1947年)6月1日に女子を無事に出産すると、吉本穎右の遺言に従い、生まれてきた女の子に「エイ子」と名付けた。
吉本せいから、エイ子を引き取りたいという話があったようだが、笠置シズ子は自身が養子で実父母の事を知らずに育ったことから、吉本せいの申し出を断り、子供を育てるために芸能界に復帰する。
そして、笠置シズ子は乳飲み子を抱えたままステージに立ち、服部良一とのコンビで「東京ブギウギ」を大ヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれるようになるのだった。
笠置シズ子は娘エイ子を私生児にしたことが心残りで、死後認知が出来ないか調べてもらったが、新憲法でも死後認知は難しく、初判断になるため、裁判になるだろということだったので、死後認知を断念した。
なお、朝ドラ「ブギウギ」のモデル一覧は「朝ドラ「ブギウギ」の実在のモデル一覧」をご覧ください。
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