糸川英夫のロケット開発

糸川英夫がカッパロケットを飛ばす実話「南極物語」のあらすじとネタバレの「南極観測とロケット」編です。目次は「実話『南極物語のあらすじとネタバレ」です。

このページは「南極観測とロケットのあらすじ」からの続きです。

かつて日本は世界最高水準の航空技術を持っていた。しかし、第2次世界大戦で敗れた日本は、進駐軍の航空禁止令によって航空機開発が禁止されていた。

ようやく、1951年(昭和26年)9月のサンフランシスコ平和条約に基づき、日本は航空禁止令が解除され、航空機開発を再開することができるようになった。

しかし、世界の航空技術は目覚ましい進歩を遂げていた。もはや、日本の持つ航空技術では、諸外国と対等に戦うことは難しい状況だった。

このようななか、1953年(昭和28年)10月にアメリカ留学から帰国した東京大学生産技術研究所の糸川英夫は、各国が開発を先行している航空機ではなく、ロケットの開発を提唱し、企業へ協力を呼びかけた。

航空技術はジェット機時代に突入しており、「ロケットは儲からない」と、企業の反応は冷ややかだったが、富士精密(元・中島飛行機)だけが糸川英夫の考えに賛同してくれた。

こうして、糸川英夫は、東京大学にロケット研究グループ「AVSA研究班」を設置して、国産ロケットの開発を始めることになる。

その後、糸川英夫は、文部省から国際地球観測年で使用する観測用ロケットの開発を相談され、日本のロケット計画が始まっていく。「朝日新聞社会部の矢田喜美雄」へ続く。

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