エール-掛田寅男(かけた・とらお/掛布雅之)のモデルと六甲おろし

NHKの朝ドラ「エール」に登場する掛田寅男(かけた・とらお)のモデルと実話のネタバレです。

■掛田寅男(掛布雅之)のモデルとネタバレ

掛田寅男(掛布雅之)は、プロ野球団「大阪タイガース」の関係者で、古山裕一(窪田正孝)に「六甲おろし」の作曲を依頼します。

そして、掛田寅男(掛布雅之)は、コロンブスレコードで、完成した「六甲おろし」を歌います。

さて、掛田寅男(掛布雅之)のモデルを特定しても意味が無いので、今回は「六甲おろし」の実話を紹介しておきます。

古山裕一(窪田正孝)のモデル古関裕而は、昭和6年に早稲田大学の応援歌「紺碧の空」を作曲しました。

この「紺碧の空」によって無名だった古関裕而の名声は高まり、古関裕而は「日米野球行進曲」「都市対抗野球行進曲」など、野球関連の曲を作曲するようになります。

そして、プロ野球団「大阪タイガース(後の阪神タイガース)」の設立にともない、古関裕而は昭和11年に「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」を作曲しました。

しかし、当時はプロ野球が学生野球よりも地位が低かった事に加え、「大阪タイガースの歌」の歌はレコードが200枚しか制作されず、関係者に配られただけだったこともあり、「大阪タイガースの歌」はヒットしませんでした。

「大阪タイガースの歌」が普及するようになるのは、戦後の昭和36年に球団名を「大阪タイガース」から「阪神タイガース」に変えた時でした。

球団名が「阪神タイガース」に変更になるときに、歌詞に登場する球団名も変更になりました。

歌詞の「お、お、おっおー、大阪タイガース」という部分は「お」で韻を踏んでいたので、古関裕而は「阪神タイガース」になると、「お」の韻が崩れる事を気にしたようです。

しかし、ファンは気にならなかったようで、コアなファンの間で「阪神タイガースの歌(六甲おろし)」が定着してきました。

この「六甲おろし」が全国的に有名になったのは、昭和60年に阪神タイガースがリーグ優勝を果たしたときです。

古関裕而は、次の曲を作曲す為に作曲した曲を忘れていくタイプの作曲家だったので、自分が作曲した「六甲おろし」の事を完全に忘れていました。

このため、古関裕而は、昭和60年にテレビから頻繁に流れてくる曲が自分の曲だったので、驚いたそうです。

朝ドラ「エール」で掛田寅男を演じる掛布雅之は、昭和60年に阪神タイガースが優勝した時の4番打者で、「六甲おろし」を全国的に普及させた張本人です。

しかし、阪神ファンに最も印象を与えたのは、平成3年に入団した助っ人外国人オマリーが歌った「オマリーの六甲おろし」です。

もの凄い音痴なのに、「オマリーの六甲おろし」はCDまで発売され、ファンの間で大きな話題となり、「六甲おろし」と言えば、オマリーの六甲おろしと言われるようになりました。

このため、掛布雅之と一緒にオマリーも朝ドラ「エール」に出演させて欲しかった、というファンも居るようです。

なお、朝ドラ「エール」のモデルや実話のネタバレは「エール-あらすじとモデルのネタバレ」をご覧ください。

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