おちょやん-須賀廼家万太郎(板尾創路)のモデルとネタバレ
杉咲花が主演するNHKの朝ドラ「おちょやん」に登場する須賀廼家万太郎(すがのや・まんたろう/板尾創路)のモデルとネタバレです。
■須賀廼家万太郎のネタバレ
須賀廼家万太郎(板尾創路)は東西随一の観客動員数を誇る伝説の喜劇王で、大坂だけで無く、東京でも活躍している。
役者の道に入った竹井千代(杉咲花)や天海一平(成田凌)が目標とする喜劇役者である。
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■須賀廼家万太郎の実在のモデル
須賀廼家万太郎(板尾創路)のモデルは、「喜劇王」「日本のチャップリン」と呼ばれた曾我廼家五郎です。
曾我廼家五郎は、明治10年(1877年)9月6日に大坂の宿院町で生まれた。父親は現在の弁護士に相当する仕事をしていたが、曾我廼家五郎は8歳の時に父親が死んだので母子家庭となった。
その後、母親が再婚したので、曾我廼家五郎は祖父(浄因寺の住職)に預けられ、小坊主としての修行が始まった。
その後、曾我廼家五郎は浄因寺を飛び出して母親の元へと逃げ、丁稚奉公に出て、何件かの奉公先で煙草屋「高井商店」で働き始め、女将さんのお供で芝居を観るようになり、芝居好きとなった。
すると、「高井商店」の主人から「それほど芝居が好きなら、役者になったらどうや」と勧められたので、曾我廼家五郎は「待ってました」と内心で喜び、舞伎役者・中村珊瑚朗に弟子入りした。
その後、歌舞伎の大部屋役者として紆余曲折を経て、ようやく始めて役が付いたのだが、役者と喧嘩をして一座を飛び出し、役者を辞めて大坂へと逃げ帰った。
■曾我廼家誕生のネタバレ
ある日、ブラブラしていた曾我廼家五郎は、千日前の三流の芝居小屋で鶴家団十郎の芝居を観ると、大入りの客の中に、大坂一と名高い芸者・八千代を発見した。
一流の八千代が三流小屋で芝居を観て笑い転げていた。曾我廼家五郎は「これなら自分に出来る」と思った。
そこで、役者時代に意気投合していた中村時代(後の曾我廼家十郎)を誘い、「前後亭左右」という劇団を旗揚げし、「新喜劇」という看板を上げたが、「前後亭左右」は全く当たらずに解散に追い込まれてしまう。
しかし、その後、曾我廼家五郎は和歌山の中村福円一座で狂言作者となり、中村福円一座で手がけた「滑稽勧進帳」という芝居が大当りさせ、大阪へと凱旋するのだった。
さて、このころ、日露戦争の開戦が目前に迫っている影響で、道頓堀の芝居小屋は客が入らないため、芝居小屋を閉めていた。
しかし、それでは商売にならないので、ダメ元で芝居小屋を開けて、芝居をしようということになった。
そこで、和歌山で芝居を当てた曾我廼家五郎の話しを聞いたので、曾我廼家五郎に浪花座への出演を依頼した。
曾我廼家五郎は、超一流の「浪花座」へ出演するのだから、それなりの名前が必要だと考えた。
そこで、そのとき読んでいた講談本の「曽我兄弟」に感銘を受けていたので、自分は曾我廼家五郎を名乗り、年上の中村時代に「曽我廼家十郎」を名乗らせ、浪花座で「曽我廼家兄弟劇」を旗揚げした。
しかし、「曽我廼家兄弟劇」の旗揚げ初日に、日露戦争が開戦し、芝居どころでは無くなってしまい、曽我廼家十郎はもう芝居を辞めると言い出した。
それでも、曽我廼家五郎は、その日の新聞記事を即興芝居にする「ニュース芝居」を思い出し、日露戦争の号外を芝居にして、「無筆の号外」を上演すると、「無筆の号外」が大ヒットして、一気に喜劇界の頂点へと上り詰めた。
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■曽我廼家兄弟の分裂と晩年ネタバレ
曽我廼家十郎は、元々は歌舞伎の大部屋役者で、役者として成功せずに、引退して田舎に帰っていたのだが、曽我廼家五郎に誘われて芝居の世界に帰ってきていた。
したがって、曽我廼家十郎は、大した役者ではないのだが、次第に「曽我廼家兄弟劇」で、天才的な才能を発揮するようになった。
曽我廼家五郎は、曽我廼家十郎に対抗するため、ピョンピョンと跳ねるように歩いたりして、芝居を誇張していき、客からもヤジられるようになっていた。
さらに、芝居の方向性の違いなども重なったので、曽我廼家五郎は愛人を連れてヨーロッパへ喜劇の研究に出たが、第1次世界大戦が勃発した影響で、わずか半年で日本に逃げ帰るという有様だった。
帰国後、曽我廼家五郎は、「曽我廼家」を捨てて、本名の和田久一で「平民劇団」を旗揚げして独立するが、和田久一では全く知名度がなく、客が入らなかったので、再び曽我廼家を名乗り、「曽我廼家五郎劇」へと改称した。
一方、曽我廼家十郎も「曽我廼家十郎劇」を旗揚げして、「曽我廼家兄弟劇」は2手に分裂した。
喜劇界に君臨していた曽我廼家十郎が大正11年11月に死去すると、曽我廼家五郎が喜劇界を独走した。
曽我廼家五郎は戦後、咽頭癌となり手術に成功したものの、声が出なくなってしまうと、千之助(ほっしゃん)のモデル曽我廼家十吾が、松竹家庭劇を休止して、五郎劇に駆けつけ、五郎劇を守った。
その後、曽我廼家五郎はパントマイムを使った劇で舞台に復帰するが、昭和23年11月に死去した。
松竹は、曽我廼家五郎の死を切っ掛けに、「五郎劇」、曽我廼家十吾の「松竹家庭劇」、2代目・渋谷天外の「すいーと・ほーむ」を合わせて、「松竹新喜劇」を発足するのだった。
チャップリンとのエピソードについては、「須賀廼家万太郎(板尾創路)とチャップリンの実話とネタバレ」をご覧ください。
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