エールの史実-古関裕而と「若鷲の歌」の実話とネタバレ
NHKの朝ドラ「エール」の古山裕一(窪田正孝)が「若鷲の歌」を作曲する実話とモデルのネタバレです。
古関裕而の徴兵と召集令状の実話のネタバレは「エールの史実-古関裕而の徴兵と召集令状の実話のネタバレ」をご覧ください。
■「若鷲の歌」の実話とネタバレ
昭和18年5月、古関裕而はコロムビアから、東宝が海軍航空隊の予科練習生をテーマとした映画を制作するので、主題歌を作曲して欲しいと頼まれた。
そこで、古関裕而は、歌詞を担当する西条八十やスタッフとともに茨城県の土浦航空隊に1日入団し、隊員の起床から就寝までを見学し、映画の撮影も見学した。
さて、西条八十の歌詞が出来ると、古関裕而は歌詞を読んで、「ハア、ヨカレン、ヨカレン」という部分が軽く感じたので、西条八十に相談してカットして、作曲に取りかかった。
なかなか、シックリとくる曲が出来ないが、土浦航空隊や映画スタッフから催促され、なんとか長調の曲を完成させた。
本人としては曲の出来に納得していなかったが、ディレクターからもOKが出て、土浦航空隊で披露することになった。
こうして、古関裕而は曲を披露するために、スタッフや演奏者と共に茨城県の土浦航空隊へ向かうのだが、曲に納得が出来ないので、曲への不満が頭から離れなかった。
すると、汽車が利根川を渡り、茨城県に入ったころ、短音のメロディーが浮かんだので、これだと思い、五線譜に書き留め、同行していた歌手・波平暁男やスタッフに渡し、短調の曲も披露するように頼んだ。
その後、土浦航空隊の事務室で教官に長調と短調の2曲を聴かせると、ほとんどの教官は短調が良いと言ったが、予科練習生の歌なのだから、予科練習生に決めさせることになった。
そこで、予科練生を集めて、長調と短調の曲を聴かせると、ほとんどの生徒が短調を支持したので、「若鷲の歌」は、汽車の中で10数分で作曲した短調の曲に決まったのだった。
この「若鷲の歌」はレコードが23万枚売れて大ヒットして、予科練に志願者が殺到したという。
ところで、古関裕而は「若鷲の歌」の曲を汽車の中で作曲したのだが、他にも汽車の中で有名な曲を作曲しているので紹介しておく。
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■汽車で作曲された伝説の曲
昭和12年、古関裕而は妻・古関金子と満州旅行から帰国しているとき、コロンビアから電報があり、急いで会社に来て欲しいと言うので、福岡県の門司でフェリーを下りて、汽車で東京へ戻る事になった。
古関裕而は、福岡でフェリーを下りて、フェリーで門司から下関へと渡り、下関の駅前旅館で朝食を取り、久しぶりに日本の新聞を読むと、軍歌の歌詞を募集した結果が発表されていた。
第1席が「進軍の歌」で、第2席が「露営の歌」だった。第1席の「進軍の歌」は既に陸軍戸山学校軍楽隊が作曲しており、コロンビアがレコードを制作することになっていた。
その後、汽車で東京へと向かうのだが、特急でも東京まで10数時間かかるので、時間を持て余した古関裕而は、新聞に掲載されていた歌詞の第2席「露営の歌」に曲を付けた。
そして、古関裕而が東京のコロムビアに到着すると、担当のデレクターから「露営の歌」を作曲して欲しいと頼まれたのだが、「それならもう出来ますよ」と言い、汽車の中で作った曲を渡した。
デレクターが驚いて「どうして分ったんですか?」と尋ねると、古関裕而は「作曲家の第6感ですよ」と答えた。
こうして完成したのが、「勝ってくるぞと勇ましく」というフレーズで有名な「露営の歌」で、伊藤久男の歌でレコード化された。
当初は全く売れなかったのだが、しばらくすると、上海の兵士達の間で歌われるようになり、その新聞報道が切っ掛けで、日本国内でも火が付き、A面の「進軍の歌」をしのいで、B面の「露営の歌」が大ヒットし、出征する兵士を見送るときに歌う定番の曲となった。
「露営の歌」は100万枚を売り上げたと言われているのに対して、「若鷲の歌」は23万枚を売り上げたと言われている。
時代背景や物資統制の関係もあるので、単純にレコードの売り上げ枚数だけでは比較的無いのだが、古関裕而の三大軍歌は「暁に祈る」「露営の歌」「若鷲の歌」とされている。
なお、朝ドラ「エール」の実話やモデルのネタバレは「朝ドラ「エール」のモデルとあらすじとネタバレ」をご覧ください。
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