おちょやん-須賀廼家百久利(すがのや・ひゃっくり)のモデルとネタバレ

NHKの朝ドラ「おちょやん」に登場する須賀廼家百久利(すがのや・ひゃっくり/坂口涼太郎)の実在のモデルとネタバレです。

須賀廼家万太郎(板尾創路)のモデルについては「おちょやん-須賀廼家万太郎(板尾創路)のモデルとネタバレ」をご覧ください。

■須賀廼家百久利(坂口涼太郎)のネタバレ

朝ドラ「おちょやん」に登場する須賀廼家百久利(坂口涼太郎)は、須賀廼家徳利(大塚宣幸)の弟分である。

須賀廼家千之助(ほっしゃん)の事が大好きで、須賀廼家千之助を追いかけて、鶴亀家庭劇に参加した。

鶴亀家庭劇には竹井千代(杉咲花)天海一平(成田凌)が居り、切磋琢磨して新しい喜劇を作り上げるのだった。

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■須賀廼家百久利(坂口涼太郎)の実在のモデル

須賀廼家百久利(坂口涼太郎)のモデルは、「浅草の喜劇王」と呼ばれた曽我廼家五九郎だと思います(違う可能性が出てきました)。

曽我廼家五九郎(本名は武智故平)は、明治9年(1876年)4月12日生まれ、徳島県吉野川市鴨島町出身の喜劇俳優である。

曽我廼家五九郎は自由民権運動に共感して16歳の時に上京し、板垣退助の書生となって門番を務めるが、壮士として糾弾されたため、大坂へと逃げ、その後は生活のために、芝居の一座に加わったり、物を売ったりしていた。

明治40年、31歳の時に新富座に出ていた曾我廼家五郎の芝居を見て感銘を受け、弟子入りを志願する。

曾我廼家五九郎は、毎日のように曾我廼家五郎の元に通って弟子入りを頼んでいたのだが、弟子と言っても、五九郎と五郎は年齢が変わらないので、曾我廼家五郎は断り続けていた。

ところが、ある日、曾我廼家五郎が「お前さんも毎日ご苦労なことやな」と声をかけると、曾我廼家五九郎は「名前を頂いて、ありがとうございます」と言い、翌日から「曾我廼家五九郎」と名乗って曾我廼家五郎の弟子になってしまったのである。

しかし、曽我廼家五九郎はわずか3ヶ月で独立し、3年後の明治43年に上京して五九郎一座を旗揚げして、明治45年に東京の浅草へと進出した。

そして、曽我廼家五九郎は浅草で、女形を排除して、オール女優を使った喜劇をヒットさせて革命を起こし、曽我廼家十吾にも大きな影響を与え、「浅草の喜劇王」と呼ばれるようになった。

しかし、昭和に入ると、エノケン(榎本健一)らの台頭もあり、人気は低迷し、失意のうちに昭和15年(1940年)7月に死去した。64歳だった。

なお、朝ドラ「おちょやん」のモデルや実話のネタバレは「朝ドラ「おちょやん」のあらすじとモデルのネタバレ」をご覧ください。

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