朝ドラ「エール」藤丸(井上希美)のモデル音丸の泥沼離婚と生涯

NHKの朝ドラ「エール」に登場する藤丸(井上希美)のモデル音丸の泥沼離婚をネタバレします。

■藤丸(井上希美)のモデル音丸の泥沼離婚のネタバレ

音丸(永井満津子)の実家は下駄屋をしており、最初の夫・長井時三郎は実家の下駄屋に奉公していた親戚だった。

下駄屋の奉公は厳しかったようで、奉公人が定着しなかった。そのようななかで、長井時三郎は下駄屋で奉公を続けていた。

長井時三郎は「遊び」もせずに、真面目に働いており、腕も良かったので、音丸の父親は永井時三郎の事が気に入り、音丸の婿養子にして下駄屋を継がせることにした。

永井家には長男(音丸の5歳下の弟)が居たが、小さかったので、永井時三郎を音丸の許嫁にして、下駄屋を継がせることにしたようである。

その後、音丸は12歳の時に父親が死に、17歳との時に母親の言うとおり、長井時三郎と結婚したのだが、結婚した直後に夫の長井時三郎から恥ずかしい病気を移されて入院を余儀なくされた。

夫・長井時三郎が謝罪して、退院後に新婚生活の仕切り直しとなるが、今度は商売の方で問題が発生する。

長井時三郎は職人としての腕は良かったが、愛想が悪く商売下手だったのである。

母親は長井時三郎に見切りを付けて、長男に店を任せようとしたのだが、長男が死去してしまい、長井時三郎が取り仕切る下駄屋は傾いていった。

音丸は子供が出来なかったので、ある人から子供が居れば、夫婦も上手く行くのではないかと助言され、養子をもらおうと考えたが、夫・長井時三郎に反対され、諦めた。

そこで、歌好きだった音丸は、気晴らしに、家の裏手で尺八を吹いていた黒尾童太郞から歌を学ぶようになったが、黒尾童太郞と喧嘩別れして、尺八の菊池淡水から歌を学ぶようになった。

そして、菊池淡水に認められてリーガルレコードでレコードを吹き込むようになり、29歳の時にコロムビアレコードと専属契約した。

コロムビアのディレクターの坂田哲郎が「レコードは丸いでしょ。彼女は顔や体も丸かったから」という理由で、音丸と名付けた。

音丸は芸者出身ではなかったが、当時は芸者歌手が活躍していたので、芸者の格好をしてデビューし、いきなり「船頭可愛や」が大ヒットして、一流歌手の仲間入りをした。このため、芸者から虐められた。

「船頭可愛や」が大ヒットすると、夫・長井時三郎は働くなり、音丸の収入を当てにするようになったようだ。

音丸は「一流歌手の生命なんていつ終わるか分らない。そのときになって後悔しても遅いので、身を入れて商売を繁盛させて欲しい」と頼んだが、夫・長井時三郎は聞く耳を持たなかった。

そのようななか、ある親戚が「夫婦仲が上手くいっていないのなら、別れた方が良いのではないか」と助言すると、夫・長井時三郎は「天下の音丸と別れるのなら、3円や4円の手切れ金は貰わなければならない」と答えた。

それを知った音丸は、夫・長井時三郎と口論した末、全てを夫・長井時三郎に残し、母親を連れて家を出た。デビューから2年で離婚となった。

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■再婚と戦後

音丸は離婚して間もなく、弁士の井口静波と再婚するが、井口静波は他にも鎌倉に妻が居た。

井口静波は、2人と結婚するが、2人とも正式な籍は入れて居らず、2人の妻の家を行き来した。音丸は日陰の女だったが、井口静波の間に千枝子という子供が生まれ、幸せな生活を過ごした。

戦時中、音丸は井口静波と軍の慰問などを続けた。戦後も昭和30年頃まで歌手として活躍していた。

音丸は戦後、世田谷に土地を買ってアパート経営し、念願のマンションも建ており、現役引退後も生活には困らず、井口静波には先立たれたが、子供や孫に囲まれ、幸せな生活を送り、昭和51年(1976年)1月18日に死去した。69歳だった。

なお、当サイトでは、朝ドラ「エール」の実話やモデルのネタバレを紹介しているので、「朝ドラ「エール」のモデルとあらすじとネタバレ」をご覧ください。

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