曽我廼家十郎(そがのや・じゅうろう)の生涯
NHKの朝ドア「おちょやん」の須賀廼家千之助(すがのや・せんのすけ)のモデルとなる曽我廼家十郎(そがのや・じゅうろう)の生涯をネタバレします。
■須賀廼家千之助のモデル解説
須賀廼家千之助(ほっしゃん)のモデルは「アドリブ王」と呼ばれた曽我廼家十吾です。
ただ、須賀廼家千之助が20年前に、須賀廼家万太郎(板尾創路)と「須賀廼家兄弟劇」を一座を組んでいたが、喧嘩別れしたというエピソードのモデルは曽我廼家十郎です。
曽我廼家十吾の生涯については「おちょやん-須賀廼家千之助(ほっしゃん)のモデルとネタバレ」で紹介しているので、今回は曽我廼家十郎の生涯をネタバレします。
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■曽我廼家十郎の生涯
曽我廼家十郎(本名は大松福松)は、明治2年(1869年)4月26日に三重県伊勢松坂町で生まれた。実家は合羽やタバコ入れなどを作っていた。
大松福松は、小さい頃に素人芝居で「白木屋」のお駒を演じて初舞台を踏み、歌舞伎役者を志して、22歳の時に歌舞伎役者の初代・中村時蔵に弟子入りし、「中村時代(なかむら・ときよ)」と名乗ったが、大部屋から出る事ができず、その他大勢の1人に過ぎなかった。
そのようななか、明治36年(1903年)に、意気投合していた大部屋役者の中村珊之助(後の曽我廼家五郎)がトラブルを起こして役者を辞めた。
この頃の白粉には有毒な「鉛」が含まれており、女形だった大松福松は、鉛中毒に冒されており、大部屋から出る事も出来なかったので、中村珊之助が辞めたのを機に、大松福松も役者を諦め、伊勢松坂町に帰って実家を継いだ。
■曽我廼家兄弟劇の旗揚げ
ところが、しばらくすると、中村珊之助が「俄(にわか」を自然にした芝居「笑劇」を思いつき、実家に戻っていた大松福松を迎えにきた。
大松福松は親に知れると怒られるので、中村珊之助と一緒に家出をして、「前後亭左右」という一座を旗揚げしたが、7日間興行の約束を1日で打ち切られるほどの不入りで、一座は解散してしまう。
その後、大松福松と中村珊之助は、和歌山県の弁天座に拾われ、明治37年(1904年)1月に2人で書いた「滑稽勧進帷」が大当りた。
これが、興行師・豊島利一の目にとまり、大松福松と中村珊之助は、道頓堀の浪花座という檜舞台に出演することなった。
そこで、2人は、一流の浪花座に相応しい名前が必要だと考え、「曾我兄弟」から名前を取り、年上の大松福松が「曽我廼家十郎」、年下の中村珊之助が「曾我廼家五郎」を名乗り、「曽我廼家兄弟劇」を旗揚げしたのだった。
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■「無筆の号外」が大ヒット
「曽我廼家兄弟劇」は明治37年(1904年)2月1日に、道頓堀の浪花座という一流の舞台で旗揚げした。このとき、看板には「新喜劇」という言葉が使われていた。
初日は日露戦争の影響で初日は不入りだったが、日露戦争の勃発の号外をヒントに、徹夜で「無筆の号外」を書きあえげ、2日目に「無筆の号外」を上演すると、これが大ヒットした。
こうして、「曽我廼家兄弟劇」は一躍、人気の一座になったというのが通説だが、これには異説があり、実際に「無筆の号外」が始めて上演されたのは、翌月の明治37年3月で、場所は京都の朝日座だったという。
その後、「曽我廼家兄弟劇」は東京進出を果たすが、1度目の東京進出は大阪弁が全く通用せずに失敗した。
しかし、2度目の東京進出は、旅順開城の影響で好景気に沸いており、大成功して全国的に有名になった。
■曽我廼家兄弟劇の解散
2人は、「曽我廼家兄弟劇」を旗揚げして一気にブレイクしたのだが、あまり長続きはしなかった。
曾我廼家五郎は、天才的な才能を発揮する曽我廼家十郎に対抗して、ピョンピョンと跳ねるように歩いたり、声を押し潰して喋るようになったりして、誇張した演技をするようになったため、客からも批判されるようになった。
曽我廼家十郎も、一度、引退して玩具屋を始めたのだが、再び復帰に復帰するなど、色々とあったらしい。
結局、曾我廼家五郎が愛人を連れてヨーロッパに旅立ち、帰国後に大正3年に「五郎劇」と「十郎一座」に分離したのだった。
それから7年後の大正10年5月、喜劇界の頂点に君臨していた曽我廼家十郎は、有楽座に出演中に倒れ、大正14年(1925年)12月4日に死去した。56歳でその生涯を閉じた。
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■曽我廼家十吾が襲名を拒否
曽我廼家十吾は、曽我廼家十郎の弟子で、「曽我廼家文福」を名乗っていた時期があり、十郎の3回忌公演のときに、曽我廼家十吾が「十郎」を襲名する話が出た。
曽我廼家十吾は「十郎」の襲名を拒否したのだが、松竹の白井松次郎の意向もあり、十郎と五郎の名前を取り、「曾我廼家十五」と改名した。
ところが、「曽我廼家五郎」が「五郎が十郎よりも下にくるとは、どういうことだ」と激怒し、名前の返上を迫った。
しかし、十吾は「曾我廼家十五」で印刷をしていたので、今から名前の変更をすると大損になる。
そこで、「五」の下に「口」を足して、「十吾」と改名し、印刷物には五の下に「口」の判子を押して対応した。
なお、朝ドラ「おちょやん」のモデルとネタバレは「朝ドラ「おちょやん」のあらすじとモデルのネタバレ」をご覧ください。
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