おちょやん-花車当郎(はなぐるま・あたろう/塚地武雅)のモデル
NHKの朝ドラ「おちょやん」に登場する花車当郎(はなぐるま・あたろう/塚地武雅)の実在のモデルとネタバレです。
■花車当郎(塚地武雅)のネタバレ
花車当郎(塚地武雅)は「しゃべくり漫才」で名をはせた漫才師で、戦時中に防空壕に避難していた竹井千代(杉咲花)と出会い、戦後は竹井千代と共にラジオドラマを開始し、ラジオドラマを次々にヒットさせるのだった。
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■花車当郎(塚地武雅)のモデル
花車当郎(塚地武雅)のモデルは、吉本興業の漫才・花菱アチャコです。
花菱アチャコ(本名は藤木徳郎)は、明治30年(1897年)7月10日に福井県勝山市で、仏壇屋を営む藤木広吉の次男として生まれた。
藤木広吉は大阪に出て、パイプ職人になったようだが、仕事が上手くいかずに貧乏をしており、花菱アチャコは口減らしのために奉公に出された。
そして、花菱アチャコは奉公先を転々とするなか、大道芸を見ているうちに大道芸に参加するようになる。
その後、漫才の玉子屋円辰や喜劇の曾我廼家五郎の門を叩くが、入門を拒否され、母親の伝で大正2年に「美成団」に入った。
しかし、「美成団」では芽が出ず、顔が喜劇向きだと言われたので、「鬼笑会」に入って喜劇に転向し、さらには漫才に転向するのだった。
大正15年(1926年)、花菱アチャコは吉本興業の林正之助に認められて吉本興業に入り、千歳家今男と漫才コンビを組んでいたが、コンビが解散したので、芸能界を引退しようとしていた横山エンタツと漫才コンビを組んだ。
こうして、昭和5年に漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」が結成され、新しいスタイルの「しゃべくり漫才」を開始し、昭和8年の「早慶戦」で大ブレイクする。
しかし、人気コンビを2つに分ければ、儲けが2倍になると考えた吉本興業の陰謀により、「エンタツ・アチャコ」は解散してしまうのだった。
さて、大阪は空襲を受けて壊滅的な被害を受けたので、戦後、吉本興業は芸人を全員解雇して、演芸を捨て、映画館の運営で復興を始めた。
しかし、花菱アチャコだけは、芸人が自分1人だけなら、吉本興業に来た仕事を独占できると考え、吉本興業の林正之助に懇願し、1人だけ吉本興業に残った。
一方、吉本興業を解雇された横山エンタツは、旅一座に加わったと、NHKのラジオ番組でヒットを飛ばしていた。
NHKはラジオで「エンタツ・アチャコ」を再結成させようとしたが、花菱アチャコは横山エンタツが既にラジオで活躍していたことから、ラジオ出演を拒否していた。
しかし、尊敬する脚本家の長沖一が脚本を書いてくれるというので、ラジオ出演にOKし、ラジオ番組「アチャコ青春手帖」がはじまることになった。
そこで、花菱アチャコは、大阪弁が話せて、自分のアドリブに対応できる女優として、浪花千栄子を相手役(母親役)に指名した。
しかし、浪花千栄子は、夫・渋谷天外の不倫が原因で離婚し、所属していた「松竹新喜劇」も辞めて芸能界を引退し、居場所が分らなくなっていた。
そこで、月宮乙女を相手役にして、ラジオ番組「アチャコ青春手帖」を開始するのだが、月宮乙女が2回で降板していまう。
そこで、花火アチャコは改めて、浪花千栄子を相手役に指名した。
浪花千栄子は京都にいるらしいという噂はあったので、NHKのプロデューサー富久進治郎が京都に飛び、浪花千栄子を捜し回ったのだが、見つからなかった。
タイムリミットを迎えたので、浪花千栄子を諦めて、別の女優で行く事になったのだが、あと1日だけ待ってみようということにあんり、プロデューサー富久進治郎が再び京都へと飛んだ。
それでも見つからず、富久進治郎が一杯飲み屋には行って「この辺に居るのだが」とため息をつくと、一杯飲み屋の主人が「浪花さんなら、さっき、風呂屋に入っていきましたよ」と教えてくれた。
こうして、富久進治郎は浪花千栄子を発見したのだが、浪花千栄子は花屋の師匠の2階に居候して落ちぶれており、大阪に来る電車賃も持っていないという有様だった。
そこで、富久進治郎は浪花千栄子に電車賃を渡し、大阪に来るように頼んだのである。
こうして、浪花千栄子はラジオ番組「アチャコ青春手帖」に出るようになると、その柔らかい大阪弁が話題となり、「アチャコ青春手帖」は大ヒットし、映画界からも出演依頼がくるようになり、名脇役として活躍していくのである。
ちなみに、浪花千栄子の大阪弁は「島之内言葉」と言われるのだが、本には「浪花弁」と称した。
詳しくは「おちょやん-竹井千代(杉咲花)の大阪弁のネタバレは浪花千栄子」をご覧ください。
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