おちょやん-「お家はんと直どん」のあらすじとモデルと実話

NHKの朝ドラ「おちょやん」に登場する芝居「お家はんと直どん」(おいえはんとなおどん)のあらすじとモデルと実話のネタバレです。

■「お家はんと直どん」のネタバレ

戦後、「鶴亀新喜劇」が旗揚げされ、天海一平(成田凌)が座長に就任した。

そこで、須賀廼家千之助(ほっしゃん)は「鶴亀新喜劇」のこけら落とし公演のために、「お家はんと直どん」という脚本を書くのだが、須賀廼家万歳(藤山扇治郎)と須賀廼家千兵衛は出番が無いので不満を漏らす。

一方、芝居の稽古を始めた須賀廼家千之助(ほっしゃん)も、台詞もアドリブも出なくなり、須賀廼家万太郎(板尾創路)から「台詞もアドリブも出なくなったら、俳優として終わりや」と言われた事を思い出す。

そのようななか、座長の天海一平(成田凌)が、「お家はんと直どん」を書き直し、須賀廼家万歳(藤山扇治郎)と須賀廼家千兵衛の出番を作った。

いつもの須賀廼家千之助(ほっしゃん)なら、怒るはずなのだが、須賀廼家千之助は書き直した台本を認め、竹井千代(杉咲花)を主役に指名した。

そして、須賀廼家千之助(ほっしゃん)は、「鶴亀新喜劇」を立ち去るのだった。

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■「お家はんと直どん」のモデルとあらすじ

実際に、松竹で「お家はんと直どん」という芝居が上演されている。

実話でも、茂林寺文福(曾我廼家十吾のペンネーム)の作で、舘直志(2代目・渋谷天外のペンネーム)の脚色である。

「お家はんと直どん」は、船場の老舗のお家はんが、息子の結婚に反対して、相手の家に乗り込むと、結婚相手の父親は店に奉公していた男で、お家はんが駆け落ちしよとした男だった、というストーリーである。

■須賀廼家千之助の実話のネタバレ

須賀廼家千之助(ほっしゃん)は「お家はんと直どん」の芝居を見届けると、「鶴亀新喜劇」を辞めるのだが、モデルの曽我廼家十吾が「松竹新喜劇」を辞めるのはもっと後のことである。

やがて、「松竹新喜劇」はラジオや映画にも出演するようなり、団員たちはマイクなどに順応していくのだが、曽我廼家十吾は依然として舞台のやり方を続けており、マイクに順応できなかったようだ。

また、アドリブを重視する曽我廼家十吾は、座長の渋谷天外が文芸路線を進んでいた事にも不満を持っていたのだろう。

色々な不満が重なり、曽我廼家十吾は、映画「たぬき」の撮影で不満を爆発させ、映画界に入ると宣言して昭和31年(1956年)4月に「松竹新喜劇」を退団し、映画監督の松田定次に弟子入りしたのだが、1本の映画をとることなく、映画界を辞めた。

そして、曽我廼家十吾は昭和32年8月に「松竹家庭劇」を旗揚げしたが、時代遅れの芝居だったので、客が入らず、「松竹家庭劇」も潰れてしまうのだった。

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