雉真繊維(きじませんい)と雉真千吉(段田安則)の解説

NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」に登場する雉真繊維(きじませんい)と社長・雉真千吉(段田安則)に関連して岡山県の実話を紹介します。

■はじめに

朝ドラ「カムカムエヴリバディ」には、岡山の繊維会「社雉真繊維」と社長・雉真千吉(段田安則)が登場しており、岡山の繊維業界が描かれると考えられる。

岡山県の繊維と言えばジーンズが有名なので、ドラマを理解する上で必要になると思われる岡山県のジーンズの歴史について紹介する。

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■実話のあらすじ

岡山県南部に「児島(こじま)」という地域がある。児島は、ジーンズ(ジーパン)の日本発祥の地として有名な地域である。

この児島は元々、瀬戸内海に浮かぶ島だったのだが、江戸時代の初期に大規模な干拓により、児島は本土と地続きとなった。

かなり大規模な干拓事業だったようで、岡山市の南半分、倉敷市の南半分は、江戸時代の干拓により誕生している。

さて、干拓によって誕生した児島は、塩分の関係で米が作れないため、塩に強い綿が栽培されるようになる。岡山の綿は上質だったことから、高級品として愛用されるようになり、綿の栽培が盛んになった。

初めは綿の生産だけだったが、真田幸村が考案したという「真田紐」をなどを作ると、これが参拝客のお土産として人気になり、江戸時代の児島は綿産業で栄えた。

明治時代に入ると、岡山県では近代化政策で、養蚕と綿紡績が重要視され、「下村紡績」「玉島紡績」「倉敷紡績(クラボウ)」「笠岡紡績」などが相次いで設立された。

そして、時代の変化から「足袋」「畳ぶち」など、様々な商品を製造するようになり、大正時代に足袋産業が盛んになるが、洋装の普及から足袋産業は衰退していき、児島の業者は学生服の製造へとシフトする。

児島の学生服は評判を呼び、昭和に入ると学生服の9割を生産するほどに発展するが、第2次世界大戦の影響で、学生服の製造は縮小を余儀なくされた。

戦後、統制が解除されると、児島で学生服の製造が再開され、活況を取り戻すが、間もなく合成繊維で製造された学生服が登場したため、児島の学生服は衰退し、児島の製造業者は大手合成繊維メーカーの傘下に入っていく。

そのようななか、大手メーカーの傘下に入らなかった児島の「マルオ被服(ビックジョン)」は、制服が作れなくなり、苦境に立たされる。

しかし、「マルオ被服」は、東京で売られていたジーンズに着目しており、衣服の輸入が解禁されると、ジーンズの輸入・販売を開始し、やがて、日本人に合うジーンの開発に着手した。

そして、「マルオ被服(ビックジョン)」は昭和40年に、アメリカから輸入したデニムを使用し、が日本で始めて縫製したジーンズを発売した。

このため、児島は「日本のジーンズの発祥の地」と呼ばれているが、当時は舶来品の方が上等とされていたので、国産ジーンズはあまり売れなかったようだ。

しかし、昭和45年ごろから、日本でジーンズブームが起き、「マルオ被服」は児島のトップメーカーに成長。大手メーカーや児島の業者が相次いでジーンズに参入し、様々な国産ジーンズはブランドが誕生した。

そして、「マルオ被服」は昭和48年に、「倉敷紡績(クラボウ)」と開発した国産デニムを使い、国産ジーンズを発売した。

なお、「マルオ被服(ビックジョン)」の社長が尾崎小太郎で、尾崎小太郎の弟・尾崎利春らジーンズに参入して「ボブソン」を創業している。

■国産デニムの発祥も岡山

岡山県では江戸時代から藍染めが盛んに行われており、岡山県の井原では、明治時代から、デニムに似た「備中小倉織」の生産が始まっていた。

そして、戦後の昭和35年に井原で国産デニムの製造が開始された。

井原のデニムは「井原デニム」と呼ばれ、世界的にも評価が高く、井原は「デニムの聖地」と呼ばれている。

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