鎌倉殿の13人-北条義時のあらすじと最終回ネタバレ

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のモデルとなる北条義時(ほうじょう・よしとき)の生涯を紹介します。

鎌倉殿の13人
鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人-北条義時の目次

  1. 鎌倉殿の13人-北条義時のあらすじとネタバレ
  2. 源頼朝と八重姫と北条政子
  3. 鎌倉殿の13人-北条義時の誕生
  4. 源頼朝の挙兵
  5. 源平合戦のネタバレ
  6. 鎌倉殿の13人-北条義時の活躍
  7. 鎌倉幕府成立のネタバレ
  8. 曾我兄弟の仇討ち(曽我物語)
  9. 北条義時と13人の合議制のネタバレ
  10. 安達景盛の妾事件
  11. 梶原景時の変
  12. 北条義時と比企能員の変
  13. 北条義時と畠山重忠の乱
  14. 北条義時と宇都宮頼綱の謀反
  15. 北条義時と和田義盛の乱
  16. 北条義時と3代将軍・源実朝の暗殺
  17. 藤原頼経が4代将軍に就任

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鎌倉殿の13人-北条義時のあらすじとネタバレ

鎌倉幕府の成立は1192年だったので「良い国作ろう鎌倉幕府」と暗記したが、最近は1185年に鎌倉幕府が成立していたという説が有力となり、「良い箱作ろう鎌倉幕府」と暗記するようになった。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の「鎌倉殿」は、鎌倉幕府の当主の事で、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなものとのよりとも)が大きく関わってくる。

そこで、「鎌倉殿の13人」の実話の背景を解説するため、話しは鎌倉幕府の誕生から29年前の1156年(平安時代)に遡る。

1156年に鳥羽法皇が死去した事を切っ掛けに、後白河天皇と崇徳上皇が対立し、この争いを制した後白河天皇が朝廷の実権を握った(保元の乱)。

ところが、それから4年後の1160年に、後白河天皇の側近である信西(しんぜい)と藤原信頼(のぶより)が対立する。

すると、恩賞に不満を持った源義朝(よしとも)が藤原信頼につき、平清盛(きよもり)が信西について対立する。

そして、源義朝は、平清盛が熊野参拝に出かけた隙を突いてクーデターを起こし、後白河天皇を幽閉するが、引き返してきた平清盛に破れてしまう。

その結果、源義朝は処刑されるが、幼かった源義朝の3男・源頼朝(よりとも)は処刑を免れ、伊豆国へと流刑になるのだった。

源頼朝と八重姫と北条政子-あらすじとネタバレ

伊豆国に伊東祐親(いとう・すけちか)という豪族がいた。

歌舞伎などで有名な日本三大仇討ちの1つ「曽我兄弟の仇討ち(曽我物語)」の曽我兄弟の祖父が、この伊東祐親である。

伊東祐親は平家側の豪族で、源頼朝の監視役を任されており、伊豆国に流された源頼朝は、伊東祐親の元で暮らし始める。

源頼朝
源頼朝の肖像画

伊東祐親の3女・八重姫(やえひめ)は非常に美しい人で、源頼朝は伊東祐親が仕事で上洛している間に、森の中で八重姫と密会をして、男児・千鶴御前を儲ける。

しかし、八重姫は伊東祐親と先妻の間に生まれた娘だったので、源頼朝は伊東祐親の後妻の恨みを買ったらしい。

3年後に京都から戻ってきた伊東祐親は、生まれた千鶴御前を轟ヶ淵に沈めて殺すと、八重姫を取り戻し、江間小四郎に嫁がせた。

さらに、伊東祐親は源頼朝を討とうとしたが、それを知った源頼朝は伊豆国の豪族・北条時政(ときまさ)の元に逃げ込んで難を逃れた。

この北条時政が、「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時(よしとき)の父親である。

北条義時も源頼朝の監視役を任されており、源頼朝は北条義時の元で暮らすようになる。

さて、源頼朝は北条時政に3人の娘が居ることを知り、娘に近づこうと考えるが、前回は後妻の恨みを買って痛い目を見たので、今度は後妻の恨みを買わないように、後妻の娘である次女に手紙を書き、側近の安達盛長に手紙を届けるように頼んだ。

しかし、安達盛長は次女と三女は顔が悪いという噂を聞いたので、手紙を書き直して、長女・北条政子に届けた。

長女・北条政子は、前妻との間に生まれた子供であり、あまり幸せな生活ではなかったようで、源頼朝の手紙に喜び、夢中になって手紙の交換をして、源頼朝と結ばれた。

京都での仕事を終えて戻ってきた北条時政は、長女・北条政子と源頼朝が結ばれていたことに驚き、平家に知られる事を恐れ、長女・北条政子を平家側の山木兼隆と結婚させることにした。

しかし、北条政子は婚礼の当日に山木兼隆の元を逃げ差し、山を越えて源頼朝の元に走り、源頼朝と結婚した。

伊東祐親の3女・八重姫は、江間小四郎と結婚させられたが、直ぐに離婚して実家に戻っており、源頼朝の事を思い続けていたので、伊東家を抜け出して源頼朝に会いに行った。

しかし、北条家の門番は冷たく、八重姫は源頼朝には会えなかった。

八重姫は源頼朝が心変わりして結婚したことを知ってショックを受け、真珠ヶ淵で入水自殺をした。侍女6人も後を追って自害した。治承4年(1180年)7月16日のことだった。

八重姫御堂
八重姫御堂(やえひめ・みどう)

鎌倉殿の13人のキャスティング

  1. 源頼朝・・・大泉洋
  2. 八重・・・新垣結衣
  3. 北条政子・・・小池栄子

八重姫のエピソードは逸話しか残っていないが、「鎌倉殿の13人」では新垣結衣がキャスティングされているので、八重姫と源頼朝の恋愛エピソードは登場すると思います。

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「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時の誕生

話しは前後するが、「鎌倉殿の13人」の主人公となる北条義時(ほうじょう・よしとき)が生まれているので、簡単に紹介しておく。

北条義時
北条義時の肖像

「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時は、源頼朝が伊豆に流されてきてから3年後の1163年に、北条時政(ときまさ)の次男として生まれた。母親は伊東入道の娘、姉が北条政子である。

父・北条時政は伊豆の豪族で、勢力は小さかったようで、北条義時の事は特に記録が無く、北条義時が史料に登場するのは源頼朝が挙兵した時である。

北条義時
父・北条義時の肖像

北条義時の6歳上の姉が北条政子で、北条義時が15歳~16歳ごろに、姉・北条政子が源頼朝と結婚する。

このため、後に源頼朝が鎌倉幕府を開いて初代将軍に就任すると、北条家は将軍家外戚として台頭することにある。

なお、戦国時代に関東で北条氏が台頭するが、「鎌倉殿の13人」の北条氏とは全く関係はない。このため、戦国時代の北条氏を「後北条氏」などと呼んで区別することも多い。

源頼朝の挙兵-あらすじとネタバレ

源義朝を排除した平清盛が京都で権力を握っており、次第に平家への不満が高まっていた。

そこで、以仁王(もちひとおう)は、源頼政の協力を得て、全国の源氏に平家討伐を発令したが、平清盛に討たれてしまう。

そのようななか、伊豆国に流されていた源頼朝は、平清盛が源氏討伐に乗り出すことを知り、1180年8月に挙兵する。

このとき、北条義時と父・北条時政は、坂東武士(関東の武士)に源頼朝に協力するよう呼びかけ、源頼朝に従軍する。

さて、源頼朝は伊豆で台頭していた山木兼隆(やまき・かねたか)を攻めて、山木兼隆を討ち取る。

その後、源頼朝は相模国の三浦軍と合流するため、相模国へと進軍し、これを迎え撃つ平家側の大庭景親(おおば・かげちか)らと、石橋山で対峙する。

兵力で勝る大庭景親は、三浦軍が近づいている事を知り、三浦軍が到着する前に勝負を付けるため、夜戦を仕掛けて源頼朝の軍勢を撃破する。

源頼朝から離れて敗走する北条家は、北条義時と父・北条時政、兄・北条宗時の2手に別れて逃げたが、兄・北条宗時は伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にした。

このため、北条義時が嫡男となるのだった。

その後、北条親子は源頼朝と合流し、甲斐の武田信義への使者として派遣される。

さて、源頼朝は、関東の武士が続々と駆けつけて大軍に膨れ上がり、挙兵から2ヶ月後の1180年10月に鎌倉入りを果たす。

これに対して、平家は平維盛(たいらの・これもり)を討伐軍として派遣するが、駿河国の富士川に到着したときには、平維盛の軍勢はわずか2000に減っていた。

これを迎え撃つ源頼朝と甲斐の武田信義の軍勢4万は、富士川の東居陣取り、平維盛と対峙した。

しかし、その日の夜、平維盛の軍勢は、水鳥が飛び立つ音を聞いて、敵の夜襲だと勘違いし、戦わずに逃げてしまう。

翌日、遅れてきた源義経(よしつね)が源頼朝の軍勢に加わる。

源義経
源義経の肖像

源頼朝は、関東を治める事に専念し、源義経と源範頼が討伐軍として活躍することになる。

源義経の解説

源義経は源頼朝の弟で、幼名を「牛若丸」と言い、「弁慶と牛若丸」で有名な人である。「判官贔屓(ほうがんびいき)」の語源にもなった。

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源平合戦のネタバレ

源頼朝は鎌倉を拠点にして、関東を制圧して鎌倉幕府の基盤を築くのだが、源頼朝が関東に基盤を築けた理由は2つある。

  1. 1181年に起きた大飢饉により、西日本は食糧不足で戦どころではなかった。
  2. 1181年3月に平清盛が死去した。

平家は大飢饉と平清盛の死去により、東国を攻めるような状況では無く、その間に源頼朝は関東での基盤を固めたのである。

そのようななか、信濃の源義仲(木曽義仲)が平家を破り、京都へと入る。

源義仲(木曽義仲)の解説
源義仲(木曽義仲)は源頼朝と同族だが、源頼朝と対立していた志田義広と新宮行家の庇護したことから、源義仲は源頼朝から睨まれる。

そこで、源義仲は嫡男の源義高を、源頼朝の長女と結婚させるという名目で、源義高を人質として鎌倉へ送り、源頼朝との武力衝突を回避していた。

さて、源義仲(木曽義仲)が平家を破って京都へと入るが、後白河法皇との関係が悪化し、後白河法皇は源頼朝に上洛を要請する。

驚いた源義仲(木曽義仲)は平家との争いを止めて、源頼朝への対策を立てようと奔走するが、鎌倉軍の源範頼と源義経の軍勢に討ち取られた。

人質として鎌倉に送られていた嫡男・源義高(木曾義高)は、父・源義仲が討たれたため、鎌倉を脱出するが、源頼朝の手勢に討ち取られて死んだ。

1184年、後白河法皇が源頼朝に、平家の討伐を命じる。

そこで、鎌倉軍の源範頼と源義経が、兵庫県で平家軍と戦い、源義経が馬で断崖絶壁を駆け下りて奇襲攻撃を仕掛け、平家の大軍を破る。世に言う「一ノ谷の戦い」である。

その後、「藤戸の戦い」「葦屋浦の戦い」「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」があり、1185年4月の「壇ノ浦の戦い」で平家は滅亡するのだった。

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源義経との対立と鎌倉幕府のネタバレ

源平合戦で華々しい成果をあげて、京都で存在感を示していた源義経だったが、急速に鎌倉の源頼朝との関係が悪化し、源頼朝から謀反の疑いを掛けられる。

怒った源義経は後白河法皇に源頼朝追討の院宣を出させるが、源頼朝が兵を率いて京都へと迫ると、後白河法皇は、一転して、源義経らを捕まえよという院宣を出した。

一気に劣勢に立たされた源義経は、京都を出て、西日本で勢力を建て直そうとするが、船の難破で計画が頓挫し、最終的に独立勢力の奥州藤原氏を頼るのだった。

このとき、源頼朝は、源義経の逮捕を口実に、後白河法皇に守護や地頭の設置を認めさせ、全国支配を可能にするのだった。

(注釈:この年が1185年で、守護や地頭の設置権を得たことで、鎌倉幕府の成立とされる)

その後、源義経が奥州の藤原氏に匿われている事が判明すると、源頼朝は朝廷の力を使って、奥州藤原氏に源義経の討伐を命じる。

藤原泰衡は朝廷の命令には逆らえず、源義経を討ち取り、源義経の首を源頼朝に届けるが、独立勢力の奥州藤原氏を邪魔に思っていた源頼朝は、源義経を匿っていたという罪を口実に、奥州藤原氏を攻め滅ぼすのだった。

後白河法皇は、源頼朝の事を快く思っていなかったようで、源頼朝を征夷大将軍に任命しなかったが、源頼朝は他のルートから根回しをしており、後白河法皇が崩御すると、次に即位した後鳥羽天皇により、征夷大将軍に任命されるのだった(1192年)。

鎌倉殿の13人-北条義時の活躍

「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時(よしとき)がほとんど登場しないのですが、何をしていたか解説しておきます。

北条義時は、姉の北条政子が源頼朝の正妻だったこともあり、源頼朝からの信任が厚く、源頼朝の寝所の警護を務める11人に選ばれ、源頼朝の側近として活躍する。

また、源頼朝が「亀の前」(女性の名前)を寵愛して、正妻・北条政子を激怒させるという「亀の前事件」があった。

このとき、父・北条時政は源頼朝に怒り、一族を率いて鎌倉から伊豆へと引上げたが、北条義時は、父・北条時政に従わずに鎌倉に残った。

このため、源頼朝は感心し、「後日、定めて子孫の護となるだろう」と北条義時を賞賛し、北条義時は御家人筆頭としての地位を確立した。

このように北条義時は、源頼朝から信任は厚く、源頼朝の側近として活躍したが、戦では目立った活躍は無かったようで、戦での記録はほとんど残っていない。

ただ、源平合戦の終盤に九州で起きた「葦屋浦の戦い」で、北条義時は平家軍の原田種直と戦って、原田種直の軍勢を撃破し、大活躍した。

ただし、北条義時が本格的に活躍を始まるのは、源頼朝が死んだ後である。

鎌倉幕府の成立のネタバレ

こまでは源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年に鎌倉幕府が成立したとされてきた。

しかし、近年は、平家を滅ぼして、朝廷から地頭や守護の任命権を得た1185年を鎌倉幕府の成立とみる説が有力になり、鎌倉幕府の成立は1185年と改められた。

このため、語呂合わせも「良い国作ろう鎌倉幕府」から「良い箱作ろう鎌倉幕府」へと変化した。

ところが、年号が変わったのは、鎌倉幕府の成立を示す明確な資料が発見されたのではなく、学説が変化したためで、1185年も学説の1つに過ぎないのだ。

鎌倉幕府の成立には、他にも説があるため、今後、学説が変われば、再び鎌倉幕府成立の年号も変わるかも知れない。

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曾我兄弟の仇討ち(曽我物語)-あらすじとネタバレ

鎌倉幕府の成立後、1193年に「富士の巻狩り(軍事演習)」が行われる。

この「富士の巻狩り」の時に、歌舞伎などで有名な演目「曾我兄弟の仇討ち」の元ネタになった事件が起きているので、家系図と相関図を踏まえて、「曾我兄弟の仇討ち」を分りやすく紹介します。

下の相関図を見て欲しいのだが、「曾我兄弟の仇討ち」は「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時の母方の伊東家の内輪もめである。

曽我兄弟の仇討ち-家系図と相関図
曽我兄弟の仇討ち-家系図と相関図

さて、「曾我兄弟の仇討ち」の発端は「富士の巻狩り」から18年前のことである。

伊東祐親は、祖父・伊東祐隆の領土を全部、相続できると思っていた。

しかし、伊東祐隆は側室の娘(連れ子)に子供を産ませ、生まれた子供・工藤祐継を養子に迎え、工藤祐継にも領土を相続させた。

この分割相続を恨みに思った伊東祐隆は、工藤祐継が死ぬと、工藤祐継の領土を横領して取り戻した。

工藤祐継の子・工藤祐経は、領土を取り戻そうとして裁判に訴えたが、敗訴してしまったので、伊東祐隆を暗殺するために刺客を送った。

刺客は伊東祐隆の暗殺に失敗するが、伊東祐隆の嫡男・河津祐泰(すけやす)の暗殺に成功する。

殺された河津祐泰には、2人の子供がおり、この2人の子供が「曾我兄弟の仇討ち」の主人公となる兄「曽我十郎」と弟「曽我五郎」である。

(注釈:河津祐泰の妻は妊娠しており、本当は3兄弟である)

さて、残された2人の子供は、母親が曾我祐信と再婚したことにより、曽我姓となり、兄は元服して「曾我十郎祐成」を名乗る。

母親は仇討ちに反対しており、弟は死んだ父・河津祐泰の菩提を弔うため、箱根権現社に預けられた。

しかし、弟は箱根権現社を逃げ出して、兄・曽我十郎と合流。

兄・曽我十郎は、弟の元服を北条時政に頼むと、北条時政は元服を引き受け、弟は元服して「曾我五郎時致」と名乗る。

さて、曽我兄弟は、父の敵を討とうと考え、工藤祐経を狙うが、工藤祐経は源頼朝の側に仕えていたので、手が出せない。

やがて、源頼朝が富士(静岡県)で大規模な巻狩り(軍事演習)を行うことが判明。義父の曾我祐信が「富士の巻狩り」に参加しており、曽我兄弟も何らかの方法で、「富士の巻狩り」に紛れ込んだようだ。

「富士の巻狩り」に潜り込んだ曽我兄弟は、虎視眈々と仇討ちの機会を狙うが、なかなか好機が訪れず、巻狩りの開催から12日目によやく好機が訪れた。

この日は雨で巻狩りが中止だったため、朝から宴会が開かれて、ドンチャン騒ぎで、みんな夜にはすっかりと寝静まっていた。

そこで、曽我兄弟は雷雨に紛れて建物に忍び込み、工藤祐経を討ち取り、18年の月日を経て仇討ちを果たした。

しかし、遊女の悲鳴で騒動に気付いた御家人が反撃に出る。

曽我兄弟は何人か討ち取るが、兄・曽我十郎は仁田忠常に討ち取られて死んだ。

曽我十郎
曽我十郎の肖像

一方、弟・曽我五郎は御所五郎丸に羽交い締めにされて取り押さえられ、翌日、源頼朝の前に突き出された。

曽我五郎
曽我五郎の肖像

話を聞いた源頼朝は、このような敵討ちを聞いたことがなかったので、鎌倉武士の鑑だと思い、弟・曽我五郎を許そうと思った。

しかし、討ち取られた工藤祐経の息子・犬房丸の懇願により、弟・曽我五郎は斬首となった。

義父の曾我祐信は、仇討ちに関わっていないということで、許された。

曽我兄弟の末弟・律師房(ぜんじぼう)は出家していたが、工藤祐経の息子・犬房丸が、曽我兄弟の末弟も仇討ちに関与していると訴えるので、源頼朝は律師房(ぜんじぼう)を鎌倉へ呼び寄せた。

源頼朝は、仇討ちに関与しているかどうか尋ねようと思っただけだったが、律師房は死罪になると思い、鎌倉に入ると、自らの命を絶った。

北条義時と13人の合議制のネタバレ

源頼朝は、征夷大将軍になった8年後の1199年1月に死去した。

1198年12月に相模川で催された橋供養の帰りに落馬した事が原因で、源頼朝は死んだとされているが、詳しい事は分らない。

源頼朝の死後、18歳の嫡男・源頼家(よりいえ)が鎌倉幕府の2代目将軍(2代目・鎌倉殿)に就任するが、源頼家が慣例を無視して独自の判断を下すとして、まもなく、有力御家人13人による合議制が敷かれた。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のモデル北条義時と父・北条時政は、この「13人の合議制」に名を連ねている。

「13人の合議制」のメンバーは下記の13人である。

  1. 大江広元
  2. 三善康信
  3. 中原親能
  4. 二階堂行政
  5. 梶原景時
  6. 足立遠元
  7. 安達盛長
  8. 八田知家
  9. 比企能員
  10. 北条時政
  11. 北条義時
  12. 三浦義澄
  13. 和田義盛

このとき、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時はまだ無名だが、父・北条時政は伊豆・駿河・遠江の守護を務めている。

さて、「13人の合議制」は、源頼家が直接、訴訟を裁決するだけでなく、源頼家へ直接、訴訟を取り次ぐことも禁じられた。

「13人の合議制」と呼ばれているが、御家人13人が1つの部屋に集まって会議をして決定を下すのではなく、13人のうち数人が話し合い、源頼家が最終判断を下したようだ。

この「13人の合議制」に怒った源頼家は、側近の小笠原長経・比企三郎・和田朝盛・中野能成・細野四郎の5人を指名して、5人が鎌倉で狼藉を働いたとしても敵対する事を禁じ、さらに5人以外は御所に来る事を禁じたのだった。

安達景盛の妾事件-あらすじとネタバレ

鎌倉幕府の有力な御家人に安達景盛(あだち・かげもり)が居た。安達景盛は京都から非常に美人な女性を連れてきて妾にしていた。

2代目将軍・源頼家は、安達景盛の妾が美人だと聞いて手紙を出していたが、良い返事が返ってこない。

そのようななか、三河国で室重広という者が狼藉を働いているという報告があったので、源頼家は安達景盛を派遣する。

安達景盛は美人の妾から離れたくないので、任務を辞退しようとするが、父・安達盛長が三河国の守護だったので、渋々、安達景盛の取り締まりに向かった。

すると、2代目将軍・源頼家は側近の中野能成に命じて、安達景盛の妾を連れてこさせ、自分の妾にしてしまうのだった。

1ヶ月後、安達景盛が三河国から戻ってくると、妾がいなくなっていた。

2代目将軍・源頼家は、安達景盛が妾のことで源頼家を怨んでいるという報告を受けたので、側近の小笠原長経らに安達景盛の討伐を命じた。

すると、大きな戦に発展しそうになったので、源頼家の母・北条政子は、慌てて2人の間に入り、争いを止めたのだった。

梶原景時の変-あらすじとネタバレ

ある日、御家人の結城朝光(ゆうき・ともみつ)が、御家人らに、亡き源頼朝のために念仏を唱えようと提案し、1人1万回の念仏を唱えた。

このとき、結城朝光は、「忠臣は二君に仕えないと聞いている。頼朝様が亡くなったとき、頼朝様の遺言で止められていたので、出家しなかったが、後悔している。今の世情は薄氷を踏むようだ」と話した。

この話を聞いた梶原景時(かじわら・かげとき)は、「忠臣は二君に仕えない」と言ったことが2代目将軍・源頼家への悪口に当たるとして、源頼家に讒訴(ざんそ)した。

梶原景時は、先代・源頼朝の腹心として活躍した鎌倉幕府の重鎮で、2代目将軍・源頼家の側近だったが、どうも他の御家人から嫌われていたようだ。

2日後、阿波局(北条時政の娘)が結城朝光に、梶原景時が将軍・源頼家に讒訴したので、貴方は殺される事になっていますと教えた。

驚いた結城朝光が親友の三浦義村に相談すると、その話を聞いた和田義盛らが署名を呼びかけ、梶原景時を糾弾する御家人66人の署名が集まった。

署名を源頼家の側近・大江広元に提出するが、大江広元は梶原景時の事を知っていたので、穏便に解決できないかと考え、署名を源頼家に届けず、自分の所で止めていた。

しかし、和田義盛らに強く迫られ、大江広元は源頼家に署名を提出する。

源頼家は梶原景時に署名を見せて意見を求めたが、梶原景時は申し開きする事が出来ず、鎌倉を出て相模国(神奈川県)の所領へと退いた。

その後、梶原景時は鎌倉追放処分となり、播磨国(兵庫県西部)と美作国(岡山県東北部)の守護を解任された。

これに不満を持った梶原景時は、上洛して甲斐の源氏・武田有義を将軍に就け、鎌倉幕府に対抗しようと企ていたらしい。

そこで、梶原景時は追放処分から1ヶ月ほどすると、京都を目指して、相模国を出た。

鎌倉幕府の北条時政は、梶原景時が戦の支度をしているという報告を受け、部隊を派遣する。

京都目指していた梶原景時は、駿河国(静岡県)で弓の競技をしていた地元の御家人に見つかり、襲撃を受けたため、対抗するが、北条時政らが派遣した部隊も駆けつけたので、梶原景時ら一族33人が討ち取られた。

こうして、2代目将軍・源頼家は側近の梶原景時を失ってしまうのだった。

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北条義時と比企能員の変-あらすじとネタバレ

鎌倉幕府の御家人に比企能員(ひき・よしかず)という御家人がいた。今回は、この比企能員が主役(被害者)である。

先に相関図と家系図を紹介しておくと、下のような感じになる。

北条義時と比企能員の変-家系図と相関図
北条義時と比企能員の変-家系図と相関図

比企氏の比企尼が源頼朝(よりとも)の乳母を務めており、比企氏は将軍家の乳母父を務める家系として発展してきた。

そして、比企能員の娘・若狭局が、第2代将軍・源頼家(よりいえ)の側室になったことから、比企氏は将軍家外戚として勢力を付けていた。

さらに、第2代将軍・源頼家は、側近の梶原景時(かじわら・かげとき)を失ったことから、若狭局の父・比企能員を益々頼りにするようになり、比企能員は鎌倉幕府で台頭していた。

一方、北条家は北条政子が初代将軍・源頼朝の正室だったことから、将軍家外戚として鎌倉幕府で台頭していたが、初代将軍・源頼朝が死去し、源頼家が2代目将軍に就任すると、将軍家外戚から外れて単なる御家人へと転落していた。

北条時政(ほうとう・ときまさ)は、台頭する比企能員を脅威に感じており、第2代将軍・源頼家を排除して、北条政子の次男・源実朝を第3代将軍に担ぎ上げることにした。

源実朝は12歳だったので、源実朝を将軍にして、実質的に北条時政が政権を握ろうと考えたのだろう。

そこで、源頼朝の弟の阿野全成(あの・ぜんじょう)は、北条時政に味方するが、将軍・源頼家から謀反の罪をかけられ、誅殺された。

その後、将軍・源頼家が危篤状態に陥ると、北条政子は源実朝に関西を相続させ、源頼家の嫡男・一幡に関東を相続させた。

この分割相続については、比企能員の知らないところで行われており、分割相続を知った比企能員は激怒する。

そこで、側室・若狭局(比企能員の娘)は、将軍・源頼家に北条時政の討伐を訴え、源頼家が北条時政の討伐を許可し、比企能員を枕元に読んで話し合う。

この話を障子の向こうで聞いていた北条政子は、父・北条時政に比企能員の企みを報告する。

すると、北条時政は、先手を打ち、鎌倉幕府の重鎮・大江広元の承諾を得ると、仏事を口実に比企能員を呼び寄せて、騙し討ちにして討ち取った。

逃げ帰った比企一族が一幡の居る小御所に立てこもると、北条政子は比企一族の行動を謀反として、比企一族の討伐を命じ、北条義時を総大将とする軍勢が小御所へと押し寄せる。

比企一族は徹底抗戦したが、次々に討たれていき、最後は小御所に火を放って自害し、源頼家の嫡男・一幡も炎に飲み込まれて死んだ。

将軍・源頼家は病状が回復すると、比企一族が滅ぼされた事を知って激怒し、北条時政の討伐を命じるが、北条時政に逆らおうとする者はほとんど居らず、将軍・源頼家は北条時政によって将軍の座を追われて、伊豆国の修禅寺へと押し込められ、最後は北条義時の手勢によって暗殺された。

北条時政は、将軍・源頼家が生きている時に、京都の朝廷に「源頼家が死んだので、源実朝が相続した」という嘘の報告をして、源実朝を征夷大将軍に任命させていた。

こうして、北条政子の次男・源実朝が鎌倉幕府の3代将軍に就任する。

このとき、北条時政は政所別当に就任するとともに、将軍を補佐する「執権(しっけん)」に就任したとされ、12歳の源実朝に代わって北条時政が鎌倉幕府の実権を握った。

北条義時と畠山重忠の乱-あらすじとネタバレ

北条政子の次男・源実朝(さねとも)が鎌倉幕府の3代将軍に就任してから2年後の元久2年(1205年)6月に、「畠山重忠の乱」という事件が起こる。

この「畠山重忠の乱」は人間関係が複雑なので、先に家系図と相関図を交えて状況を解説しておく。

畠山重忠の乱-相関図と家系図
畠山重忠の乱-相関図と家系図

源実朝を第3代将軍に就任させて鎌倉幕府の実権を握った北条時政(ときまさ)は、鎌倉幕府の要所となる武蔵野国(東京・埼玉・神奈川県の一部)へと勢力を伸ばそうとしていた。

これに反発したのが、武蔵野国の畠山重忠(はたけやま・しげただ)で、北条時政と畠山重忠は武蔵野国で対立していた。

その一方で、北条家は内部対立があり、前妻系と、後妻「牧の方」系が対立していた。

畠山重忠も平賀朝雅(ひらが・ともまさ)も武蔵野国の御家人で、何らかの対立があったのではないかと言われている。

この背景を詳しく描くと複雑なので、北条家には先妻系と後妻系で対立があったという事だけ理解出来れば十分だと思うので、本題に入る。

さて、比企能員の変によって、源実朝が鎌倉幕府の3代将軍に就任してから2年後の元久2年(1205年)6月、ある宴席で、武蔵野国の有力御家人である平賀朝雅と畠山重保が口論する。

平賀朝雅と畠山重保の口論はその場で治まったのだが、平賀朝雅は母「牧の方」に畠山重保から悪口を言われた事を報告する。

報告を受けて怒った母「牧の方」は、夫・北条時政に畠山重忠と畠山重保の親子が謀反を起こそうとしていると訴えた。

そこで、北条時政が息子・北条義時に相談すると、北条義時は「畠山殿が謀反など起こすはずがない」と反対する。

しかし、「牧の方」の兄が、北条義時は先妻の子なので、後妻の「牧の方」を軽んじているのだと言い出したため、北条義時は仕方なく、畠山親子の討伐を引き受けた。

翌朝、謀反人の畠山親子を討伐するため、御家人が慌ただしく由比ヶ浜に集結し始める。

それを知った畠山重保は、謀反人の討伐に参加するため、家臣3人を連れて由比ヶ浜へと駆けつけるが、三浦義村の手勢に取り囲まれ、佐久満太郎らに討ち取られた。

一方、畠山重保の父・畠山重忠は、虚偽の呼び出しを受け、手勢130騎を率いて鎌倉へ向かっていたところ、武蔵国の二俣川で、北条義時の大軍が自分に向かってきている事を知る。

しかし、畠山重忠は引くことを潔しとせず、大軍を相手に奮闘し、討ち死にした。

こうして、畠山重忠の手勢がわずか130騎だったことから、畠山親子は謀反など企てていなかった事が判明し、北条時政は北条義時や御家人達から反感を買うのだった。

そのようななか、北条時政は後妻「牧の方」と語り合い、将軍・源実朝を排除して、後妻系の娘婿・平賀朝雅を将軍に就けようとしている計画が露見する

そこで、北条義時と姉・北条政子は、父・北条時政と後妻「牧の方」を鎌倉から追放し、北条義時は父・北条時政の後任として政所別当に就任する。

なお、今回の「畠山重忠の乱」で、父・北条時政が失脚し、畠山重忠と畠山重保が討ち取られ、平賀朝雅も殺害された。

さらに、稲毛重成と榛谷重朝も一連の事件の首謀者として殺害されており、有力な御家人が大勢、排除された。

北条義時と宇都宮頼綱の謀反のネタバレ

北条義時と北条政子が、父・北条時政を追放してから間もなく、下野国の宇都宮頼綱(時政の娘婿)に謀反の疑いがあるという報告が鎌倉に届いた。

そこで、鎌倉幕府の北条義時・大江広元・安達景盛らは、北条政子の屋敷に集まって話し合い、小山朝政(おやま ともまさ)に宇都宮頼綱の討伐を命じる。

しかし、小山朝政は宇都宮頼綱と義理の兄弟という関係を理由に討伐を固辞し、宇都宮頼綱(うつのみや・よりつな)が謀反を起こせば、全力で抵抗する事を約束した。

こうして、小山朝政は宇都宮頼綱の討伐を回避すると、宇都宮頼綱に謀反の意思がないという釈明の手紙を書かせ、北条義時に届けたが、謀反の疑いは晴れなかった。

そこで、宇都宮頼綱は一族郎党60人を率いて出家して「蓮生」を名乗り、北条義時に会いに行くが、面会を許されなかったので、結城朝光(ゆうき・ともみつ)を通じて髻(もとどり/髪の毛)を北条義時に届けた。

これで謀反の疑いが晴れたのか、宇都宮頼綱が失脚したと思われたのか、宇都宮頼綱は罪を問われることはなくなり、摂津国(大阪府)勝尾寺の法然上人の弟子となり、法然上人の死後は京都・西山善峯寺の証空上人の弟子となった。

こうして、宇都宮頼綱は神仏の道へと入ったのだが、鎌倉幕府から三井寺(みいでら)や山王社の再建を命じられたり、承久3年(1221)5月の承久の乱では鎌倉で後詰めを務めたりしており、有力な御家人でもあったようだ。

北条義時と和田義盛の乱

北条義時が有力御家人に圧力を掛けるなか、信濃の泉親衡(いずみ・ちかひら)が源頼家の遺児・千寿を擁立して、北条義時の排除に立ち上がる。

泉親衡の動きを知った北条義時は、計画に加担していた和田義盛(よしもり)の子息・和田義直(よしなお)と和田義重、さらに和田義盛の甥の和田胤長(たねなが)を逮捕する。

和田義盛は侍所別当(役職)で、鎌倉幕府の功労者ということもあり、息子の和田義直と和田義重は恩赦されたが、必死の懇願にもかかわらず、孫の和田胤長は首謀者同然として流刑となってしまう。

再三にわたる北条義時の無礼な対応に怒った和田義盛は、一族の三浦義村や縁戚の横山党(横山一族)などと結託して、北条義時を排除するために挙兵したが、直前になって三浦義村が裏切って北条義時についてしまう。

和田義盛は兵力不足のままで挙兵を余儀なくされ、北条義時の屋敷などを襲撃するが、攻めきれずに撤退する。

和田義盛は、横山党の援軍を得て再び鎌倉を攻める、数で圧倒する鎌倉幕府軍と激戦を繰り広げるが、最後は和田義盛・和田義直・和田義重などが討ち取られ、和田一族はほぼ滅亡した。

侍所別当の和田義盛が討ち死にしたので、北条義時は侍所別当に就任し、政所別当と侍所別当を兼任し、鎌倉幕府の実権を握る。

さらに、北条義時は、鎌倉殿を補佐する「執権(しっけん)」に就くのだった。

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北条義時と3代将軍・源実朝の暗殺

和田義盛を排除して執権に就任した北条義時は、鎌倉幕府の実権を握り、その地位を固めていく。

そのようななか、3代将軍・源実朝(さねとも)はが、2代将軍・源頼家(よりいえ)の実子・公暁(くぎょう/こうきょう)に暗殺されるという事件が発生する。

2代将軍・源頼家は比企能員(ひき・よしかず)の変によって鎌倉を追放され、北条義時の刺客に暗殺された。

そして、北条義時に擁立された源実朝が3代将軍に就任した。

2代将軍・源頼家の息子・公暁は、幼かったので、北条政子の計らいにより、3代将軍・源実朝の猶子(養子のようなもの)になり、その後、出家していたのだが、父親を殺された恨みを晴らすため、3代将軍・源実朝を暗殺したのだ。

公暁は出家していたが、2代将軍・源頼家の実子であり、4代将軍に就任しようとしたようだ。

3代将軍・源実朝を討ち取った公暁は、三浦義村に使者を送るが、三浦義村は公暁に味方せず、北条義時に報告し、北条義時の手勢が公暁を討ち取った。

こうして、源頼朝より始まる源氏の直系は3代で途絶えたのだった。

(注釈:こに事件には、北条義時が黒幕だという説など、様々な陰謀説があるが、詳細は不明である。)

藤原頼経が4代将軍に就任

北条政子は3代将軍・源実朝に子供が居なかったことから、後鳥羽上皇の親王を鎌倉幕府の将軍として迎え入れる話し合いが進められていた。

しかし、3代将軍・源実朝が暗殺されたこともあり、話し合いは決裂し、後鳥羽上皇と北条義時が対立する。

初代将軍・源頼朝の血を引く一族は残っていたが、意のままに動く操り人形になるよな人物は居なかったので、北条義時によって排除された。

そこで、北条義時は、源頼朝の遠縁にあたる摂関家の藤原頼経(2歳)を鎌倉幕府に招き、4代将軍へと就任させると、北条政子が将軍職を代行して、北条政子が鎌倉殿となり、北条義時が実務を取り仕切るのだった。

辻萬長が「鎌倉殿の13人」を降板

NHKは2021年7月16日、「鎌倉殿の13人」に出演予定だった辻萬長が降板する事が分った。

辻萬長は、「鎌倉殿の13人」で、主人公・北条義時(小栗旬)の祖父・伊東祐親として出演予定で、6月から撮影に入っていたが、腎盂ガンの治療に専念するため、「鎌倉殿の13人」を降板する。

浅野和之が辻萬長の代役として、「鎌倉殿の13人」に出演する。

史実通りであれば、伊東祐親は、伊豆国に流された源頼朝の監視役となる。

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