鎌倉殿の13人-北条義時の家系図と相関図

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のモデル北条義時(ほうじょう・よしとき)の生涯と家系図と相関図を紹介します。

鎌倉殿の13人-北条義時の家系図と相関図

鎌倉殿の13人-北条義時の家系図と相関図
「鎌倉殿の13人」の北条義時の家系図と相関図

上記の図が、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公となる北条義時の家系図と相関図である。

北条義時の生涯については、下記をご覧ください。

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北条義時の幼少期

北条義時は、長寛元年(1163年)に伊豆の豪族・北条時政の次男として生まれた。姉に有名な北条政子が居る。

北条義時の母親は、伊東入道の娘で、北条政子とは異母兄弟である。

北条氏は後に鎌倉幕府を牛耳ることになるのだが、北条義時が生まれた時は、伊豆の小さな豪族に過ぎないので、北条義時の幼少期の記録は残っていない。

そんな小さな豪族に過ぎない北条氏は、北条政子が源頼朝と結婚した事により、運命が変わる事になる。

北条政子と源頼朝の結婚

北条義時が生まれる前の出来事だが、源頼朝は、父・源義朝が京都で平家との争いに敗れたため、処刑は免れたものの、伊豆へと流された。

伊豆で源頼朝の監視役を務めたのが、伊豆の豪族・伊東祐親で、源頼朝は伊東祐親の元で暮らしていた。

やがて、源頼朝は、伊東祐親が仕事で上洛している間に、伊東祐親の3女・八重姫(やえひめ)と結婚して、1児を儲けるが、帰国した伊東祐親の怒りを買い、子供を殺され、離婚させられる。

源頼朝は伊東祐親に命を狙われたので、源頼朝の監視役を務める伊豆の豪族・北条時政の元へと逃げ込み、北条時政の元で暮らすようになる。

そして、北条時政が仕事で上洛している間に、源頼朝は北条時政の娘・北条政子と恋人関係になる。

帰国した北条時政は、源頼朝と北条政子の関係を知って驚くが、平家に知られると困るので、2人の関係を黙殺し、北条政子を平家側の山木兼隆に嫁がせる。

しかし、北条政子は結婚当日に山木兼隆の元を飛び出して、源頼朝の元へと走り、源頼朝と結婚するのだった。

北条政子と源頼朝の結婚は、北条義時が15歳~16歳の出来事で、北条氏は、まだまだ小さな豪族だった。

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源頼朝の挙兵

平清盛が京都で権力を握っており、次第に平家への不満が高まるなか、以仁王(もちひとおう)は、源頼政の協力を得て、全国の源氏に平家討伐を発令したが、平清盛に討たれてしまう。

そのようななか、伊豆国に流されていた源頼朝は、平清盛が源氏討伐に乗り出すことを知り、1180年8月に挙兵する。

北条義時と父・北条時政も挙兵した源頼朝に従軍する。

このとき、北条時政の長男・北条宗時が戦死したため、次男の北条義時が嫡男となる。

さて、挙兵した源頼朝は坂東武士を吸収しながら鎌倉へと入ると、関東を平定し、平家を討ち滅ぼして鎌倉幕府を開いた。

北条義時は、姉の北条政子が源頼朝の正妻だったこともあり、源頼朝からの信任が厚く、源頼朝の寝所の警護を務める11人に選ばれ、源頼朝の側近として活躍する。

しかし、戦の方では目立った活躍は無い。源平合戦の終盤に九州で起きた「葦屋浦の戦い」で、北条義時は平家軍の原田種直と戦って、原田種直の軍勢を撃破し、大活躍したのだが、これも詳しい事は分らない。

13人による合議制

鎌倉幕府の統領を「鎌倉殿」と呼ぶので、鎌倉幕府を開いた源頼朝が初代・鎌倉殿となる。

北条政子が源頼朝の正室だったので、父・北条時政は鎌倉殿の外戚として鎌倉幕府で台頭していく。

さて、源頼朝は1199年1月に死去し、18歳の嫡男・源頼家(よりいえ)が鎌倉幕府の2代目・鎌倉殿に就任するが、源頼家の独裁を防ぐため、有力御家人13人による合議制が敷かれた。

この13人による合議制に、北条義時と父・北条時政が加わり、ようやく名前が登場し始めるのだが、まだ父・北条時政の時代であり、北条義時が活躍するのはもう少し後になる。

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父・北条時政が鎌倉幕府の実権を握る

2代目・鎌倉殿となった源頼家は、北条政子の長男だが、母親の実家・北条家を軽んじて、側室・若狭局の実家・比企氏を頼りにするようになり、比企能員が勢力を拡大していた。

すると、北条義時の父・北条時政は、比企能員の台頭に脅威を覚え、比企能員と2代目・鎌倉の源頼家を排除し、北条政子の次男・源実朝を3代目・鎌倉殿に就任させる。

そして、次男・源実朝は12歳だったので、父・北条時政が政所別当に就任するとともに、将軍を補佐する「執権(しっけん)」に就任して、鎌倉幕府の実権を握るようになる。

北条義時が父・北条時政を追放

鎌倉幕府の実権を握った父・北条時政は、有力な御家人を次々に排除して、勢力を拡大していく。

そのようななか、父・北条時政と後妻「牧の方」は、3代目・鎌倉殿の源実朝を排除して、娘婿の平賀朝雅(ひらが・ともまさ)を鎌倉殿に就任させようと画策していた事が判明する。

これは、北条家内の対立が原因で、北条義時と北条政子は、父・北条時政と後妻「牧の方」を追放し、北条義時は父・北条時政の後任として政所別当に就任する。

さらに、北条義時は、侍所別当の和田義盛を挑発して、和田義盛に謀反を起こさせ、和田義盛を討ち取ると、侍所別当も兼任する。

こうして、北条義時は、鎌倉幕府の要職である政所別当と侍所別当を兼任するようになり、このときに将軍補佐の「執権(しっけん)」に就任して、鎌倉幕府を牛耳るようになる。

源頼朝の家系が断絶

北条義時が着々と勢力を拡大するなか、3代目鎌倉殿・源実朝が、2代目鎌倉殿・源頼家の子・公暁に暗殺されるという事件が発生する。

公暁は三浦義村と組んで鎌倉殿に就任しようとしたようだが、三浦義村の協力を得られず、北条義時に討たれた。

さらに、北条義時は、源頼朝の血を引く物を次々に排除し、鎌倉幕府を開いた源頼朝の男系は途絶えるのだった。

さて、2代目鎌倉殿・源頼家に子供が居なかっため、北条義時と北条政子は、京都から後鳥羽上皇の親王を鎌倉殿として招こうとしていた。

しかし、この話し合いが決裂したため、北条義時は源頼朝の遠縁にあたる摂関家の藤原頼経(2歳の幼児)を鎌倉幕府に招き、4代目鎌倉殿へと就任させる。

藤原頼経は2歳なので、北条政子が鎌倉殿を代行し、北条義時が実務を取り仕切るようになる。

後鳥羽上皇と北条義時の対立

後鳥羽上皇の親王を鎌倉幕府に招く話し合いから、北条義時と後鳥羽上皇の関係が悪化しており、後鳥羽上皇が北条義時を討伐せよとの院宣を出して挙兵した。

北条義時が朝敵となったので、御家人たちは動揺するが、北条政子が演説で御家人たちの動揺を沈める。

そして、北条義時が大軍を率いて京都へと攻め上がると、後鳥羽上皇は降伏して流刑となり、朝廷は事実上、鎌倉幕府の管理下に入った。

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北条義時の死

それから3年後、北条義時が急死する。死因は脚気とされるが、毒殺されたという説もある。

北条義時が死ぬと、後妻「伊賀の方」は実子の北条政村を執権に就任させようと画策するが、北条政子がこれを未然に防いで「伊賀の方」を追放し、北条義時の長男・北条泰時を執権に就任させた。

こうして、北条家による執権政治が確立し、父・北条時政から16代にわたって、北条家が鎌倉幕府の執権を務めるのだった。

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