「ブギウギ」のモデルー笠置シヅ子の生涯ー風呂屋で歌う少女

朝ドラ「ブギウギ」のモデルとなる歌手・笠置シヅ子(本名は亀井静子)の生涯の第2話「風呂屋で歌う少女」です。

第1話は「ブギウギのモデルー笠置シヅ子の生涯ー亀井静子が生まれる」です。

笠置シヅ子の生涯ー子供時代

笠置シヅ子は大正3年(1914年)8月25日に香川県大川郡相生村(東かがわ市)で生まれたが、両親は結婚が許されなかったため、出産で相生村に里帰りしていた亀井ウメに引き取られ、亀井家の養女となって大阪で過ごし始めた。

笠置シヅ子は発育が悪く、体も弱かったので、子供の頃に何度も死にそうにうなっており、養母・亀井ウメは心配して方々の医者に相談するほどだった。

あるとき、笠置シヅ子は100日咳で入院したが、1ヶ月たっても治らず、様態は悪くなる一方で、医者にサジを投げられた。笠置シヅ子は危篤状態になり、親戚一同が集まって葬儀の手配までしていた。

そのようななか、養父・亀井音吉が営む米屋に1人の老婆が現れた。老婆は空腹なので食べるものを分けて欲しいと頼んだ。

養父・亀井音吉が話を聞くと、老婆は香川県の高松出身で、商家で飯炊きの仕事をしていたのだが、商家が火事に遭って失業したため、長野県の善光寺で働いている遠い親族を頼って、長野県へ向かう途中なのだのだという。

すると、養父・亀井音吉は同じ香川県の出身ということもあり、老婆に食事を取らせて、長野県までの米をわけてあげた。

喜んだ老婆は、養父・亀井音吉から娘の笠置シヅ子が危篤状態に陥っている事を聞くと、護符を差し出し、「この護符で病人の額を3度こすりなさい」と言い残して立ち去った。

その護符は香川県の金比羅神社の護符だった。

養父・亀井音吉は信仰心が無かったので、護符を有り難いとも思わなかったが、好意でくれた物なので、言われたとおりに笠置シヅ子の額にお札を置いた。

すると、医者からも見放されていた笠置シヅ子が、その日の夜から改善に向かい、助かった。

護符の効果に驚いた親戚が護符を見ると、護符の裏に「相生村 しづ子」と書いてあった。

相生村は、笠置シヅ子が生まれた村なので、その因縁に驚き、笠置シヅ子はこのとき、本名が「ミツエ」だったが、「志津子」に改名した。

その後、笠置シヅ子は小学校に入るときに、「志津子」から「静子」へと改名している。

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笠置シヅ子の生涯ー実家の風呂屋で歌う

笠置シヅ子は発育が悪く、体も弱かったので、芸好きだった養母・亀井ウメは、これでは笠置シヅ子が大人になって貧乏したときに子守の仕事も出来ないだろうと考え、「芸は身を助ける」ということで、笠置シヅ子に三味線と日本舞踊を習わせた。

しかし、笠置シヅ子は男の子とチャンパラをして遊ぶような女の子だったので、座って弾く三味線には興味が出ず、三味線の時間も日本舞踊の練習していた。

さて、養父・亀井音吉は、大阪で小さな米屋を営んでいたが、大正7年の米騒動で家族に怖い思いをさせた事もあり、度重なる米騒動に嫌気が差していた。

そのようななか、笠置シヅ子が小学校へ入った年(昭和10年、7歳の時)に、近所に風呂屋(銭湯)が売りに出ていたので、養父・亀井音吉は思い切って米屋を廃業して、風呂屋を始めた。

風呂屋の経営は上手くいかなかったようで、契約の関係もあって養父・亀井音吉は風呂屋の営業場所を転々と変えており、亀井家も大阪周辺を何度か引っ越してたので、笠置シヅ子も4回転校して、計5つの小学校に通っている。

このため、笠置シヅ子は修学旅行先で、前に通っていた小学校の友達と会うという珍しい体験をした。

さて、亀井家が始めた風呂屋は笠置シヅ子の格好の練習場所となった。風呂場で歌うと反響が良いので、声が大きくなり、笠置シヅ子は小学校の時は音楽が満点だった。

やがて、風呂屋で歌ったり、踊ったりする笠置シヅ子は近所の評判となり、小屋掛けの浪速浪曲劇団に頼まれて子役として出演したり、近所で演劇会があると、養母・亀井ウメは自慢の笠置シヅ子を飛び入りで参加させるようになる。

大量のおひねり(お金を紙で包んで捻ったもの)が舞台に飛んできて、笠置シヅ子はおひねりで足を滑らせる程の人気ぶりだった。

第3話「笠置シヅ子の生涯ー三笠静子の誕生」へ続く。

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