笠置シヅ子の生涯ー三笠静子の誕生
NHKの朝ドラ「ブギウギ」のモデルとなる笠置シヅ子の生涯の第3話「三笠静子の誕生」です。
目次は「笠置シヅ子の生涯の目次」をご覧ください。
ブギウギー松竹楽劇部に入る
朝ドラ「ブギウギ」のモデル笠置シヅ子は、昭和2年(1927年)3月に13歳で恩加島尋常小学校を卒業すると、兵庫県の宝塚少女歌劇団を受験する。
小学校を卒業して直ぐに宝塚少女歌劇団を受験する人は珍しかったようだ。
芸好きの養母・亀井ウメが宝塚少女歌劇団への入団を積極に勧めたので、笠置シヅ子は宝塚少女歌劇団を受験したのだが、笠置シヅ子は小学校で音楽は満点だったので、自信満々で試験を受けた。
しかし、笠置シヅ子は子供の頃から体が弱かったので、身長が足りず、身体検査で宝塚少女歌劇団の試験に落ちてしまった。
別説によると、宝塚少女歌劇団は給料が安く、給料だけでは生活が出来ないので、家からの支援が必要だった。このため、家が裕福でないと入団できなかったらしく、笠置シヅ子の家は風呂屋だったので、入団できなかったという。
ところで、宝塚少女歌劇団がヒットした影響で、少女歌劇ブームが起こり、各地で少女歌劇団が誕生していた。
こうした流れの中で、松竹も大正11年(1922年)4月に大阪の天下茶屋で「松竹楽劇部生徒養成所」を発足しており、「松竹楽劇部」は翌年に出来た道頓堀の松竹座を本拠として活動していた。
道頓堀に木造の小屋が建ち並ぶなかで、松竹座は日本初のコンクリート製の劇場として圧倒的な存在感を示していたが、松竹楽劇部の公演は人気が出ずに低迷していた。
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ブギウギー三笠静子の誕生
松竹楽劇部は旗揚げからしばらくは不振が続いていたが、笠置シヅ子が入部する前年の大正15年(1926年)4月に公演した「春のおどり」がヒットして評判を呼んでいた。
しかし、笠置シヅ子は道頓堀へ連れて行ってもらったこともなく、家業の風呂屋の移転にともって大阪周辺を転々と引っ越していたので、大阪の中心部の事は知らず、大阪に松竹楽劇部があることも知らなかった。
笠置シヅ子は宝塚少女歌劇団の試験に落ちてショックを受けていたが、近所の人から大阪の道頓堀にも宝塚少女歌劇団と同じようなことをやっている松竹楽劇部があることを教えてもらい、松竹楽劇部に入部した。
宝塚少女歌劇に落ちた笠置シヅ子は、芸妓に奉公する話がきていたのだが、芸妓になるのが嫌だったので、松竹楽劇部に通い詰めると、奥で話を聞いていた音楽部長の松本四郎が入部させてくれたという。
最初は仮入部で、4ヶ月ほどの練習を経て正式に入部となる。仮入部で新入部員はふるいに掛けられて人数が減るが、笠置シヅ子は日本舞踊の素質を認められ、正式に入部する事が出来たという。
松竹楽劇部の先輩・飛島明子によると、最初の2年間は無給で、その代わりにうんと勉強をさせてもらう約束だったが、人によっては2~3ヶ月で舞台に出され、その特別手当が1週間に3円50銭、1日に50銭という割合で、食事や交通費は女生徒持ちという条件だったようだ。
このころ、東京の小学校の教師の初任給が45円~55円、うな重が50銭、うどん1玉が5銭だったので、1日50銭は給料としては安すぎる。
さて、このころの松竹楽劇部は上級生が40人と少ない時代だったので、笠置シヅ子は4ヶ月ほどして正式に松竹楽劇部に入ると、近所の人に本名の「亀井静子」から「三笠静子」という芸名を付けてもらい、舞台「日本八景おどり」でデビューする。
デビューと言っても、笠置シヅ子は背景の滝の水しぶきの役で、濡れた床に転んでいる風船を避けながら走るという役だった。
朝ドラ「ブギウギ」のモデル笠置シヅ子は、このようにして松竹楽劇部に入り、「三笠静子」という芸名で少女歌劇の世界に足を踏み入れたのだった。
「笠置シヅ子の生涯ー松竹楽劇部と豆ちゃん」へ続く
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