ブギウギー茨田りつ子(いばらだ・りつこ)のモデルのネタバレ

NHKの朝ドラ「ブギウギ」に登場する歌手・茨田りつ子(いばらだ・りつこ/菊地凛子)のモデルのネタバレです。

ブギウギー茨田りつ子のモデル

朝ドラ「ブギウギ」の歌手・茨田りつ子(菊地凛子)は、作曲家・羽鳥善一(草彅剛)とのコンビで「別れのブルース」という歌でヒットを飛ばした人気歌手である。

福来スズ子(趣里)は茨田りつ子に憧れて歌手を目指し、茨田りつ子野化粧をまねて、濃い化粧をしたり、長い付けまつげを付けたりした。

朝ドラ「ブギウギ」の茨田りつ子のライバル福来スズ子
出典:朝ドラ「ブギウギ」など

福来スズ子は戦時中に警察に連行されて、歌いながら踊る事を厳重注意されて落ち込み、警察の中取りに直立不動でうのだが、茨田りつ子からつまらない歌だと批判されてしまう。

茨田りつ子は連行される常連で、警察から注意されても、平然と言い返しており、警察に従うことは無く、派手な衣装と派手なメイクで歌を歌っていた。

さらに、「贅沢は敵だ」の国防婦人会が茨田りつ子を注意するが、茨田りつ子は「歌手にとっての戦闘服」と言い返していた。

やがて、梅丸楽劇団が倒産すると、福来スズ子は歌う場所を失って落ち込んでしまう。

すると、羽鳥善一が茨田りつ子のステージを見るように勧めた。

茨田りつ子は自分の楽団を持っており、派手なドレスと派手な衣装で、好きな歌を好きなように歌っていた。

国防婦人会が茨田りつ子をやり玉に挙げるが、茨田りつ子は

それを見た福来スズ子は、自分も楽団を持つことに決め、「福来スズ子とその楽団」を立ち上げるのだった。

こうして、福来スズ子が自分の楽団を持つのだが、敵性歌手のレッテルを貼られていたため、仕事が無い。

すると、羽鳥善一は、福来スズ子のために、茨田りつ子と福来スズ子の合同コンサートを開催し、成功させるのだった。

さて、戦時下になると、茨田りつ子は慰問公演を行い、慰問先の海軍から軍歌を歌うように指示されるが、軍歌を拒否したので、兵士のリクエスト曲を歌うことになった。

茨田りつ子はリクエストで「別れのブルース」を歌うことになるのだが、「別れのブルース」は軍部が良しとしない曲で、歌う事は許されない。

しかし、少年兵が「最後に聞きたい」というので、上官は席を外し、茨田りつ子に「別れのブルース」を歌わせるのだった。

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ブギウギー茨田りつ子のモデルのネタバレ

茨田りつ子(菊地凛子)は「別れのブルース」を歌うので、実在のモデルは歌手の淡谷のり子です。

朝ドラ「ブギウギ」の茨田りつ子のモデル淡谷のり子
出典:朝ドラ「ブギウギ」など

淡谷のり子は、笠置シズ子よりも7年上で、作曲家・服部良一の「別れのブルース」「雨のブルース」でスター歌手となり、「ブルースの女王」と呼ばれた。

一方、笠置シズ子は、戦前は服部良一のジャズを歌って「スイングの女王」と呼ばれ、戦後は服部良一のブギを歌って「ブギの女王」と呼ばれた。

淡谷のり子と笠置シズ子の人は、ともに服部良一の曲でスター歌手へとのし上がったのだが、対照的である。

「ブギウギ」に登場する茨田りつ子のエピソードは、ほぼ淡谷のり子の実話通りだが、簡単に実話を紹介しておく。

茨田りつ子が警察に連行される実話のネタバレ

「ブギウギ」の茨田りつ子は警察に連行される常連だったが、モデルの淡谷のり子も50回近くは警察に連行されている。

淡谷のり子は戦時中でも、派手なメイクと派手な衣装だった。

国防婦人会から注意されても、淡谷のり子は「メイクや衣装は歌手の戦闘服。兵隊さんの鉄兜と同じ」と言い返している。

また、「ブギウギ」の茨田りつ子が度々、警察に連行されているように、淡谷のり子は警察へ連行されて取り調べを受けても、平然と言い返しており、警察も諦めたのか、淡谷のり子に始末書を書かせて放免している。

淡谷のり子は何度、連行されても、自分を曲げなかったので、終戦までに50枚近い始末書をかいている。

合同コンサートの実話のネタバレ

「ブギウギ」の茨田りつ子が、羽鳥善一の提案で、福来スズ子と合同コンサートを開催するエピソードは、少し改変されているが、実話である。

これは、笠置シヅ子が松竹楽劇団から独立する時のエピソードで、松竹楽劇団の経営が悪化していたので、笠置シヅ子は松竹から独立を勧められていた。

笠置シヅ子は独立の準備をしていたので、松竹楽劇団の最後の公演には出演しておらず、松竹楽劇団が解散したので、笠置シヅ子は松竹楽劇団の楽団員を率いて独立して、「笠置シヅ子とその楽団」を発足した。

すると、服部良一は、笠置シヅ子の独立を支援して、淡谷のり子の合同コンサート「タンゴ・ジャズ合戦」を開催した。

笠置シヅ子は「別れのブルース」を自分の持ち歌にしたいと頼んだが、服部良一から断られた事があり、淡谷のり子への対抗心があったようだ。

このため、笠置シヅ子は「タンゴ・ジャズ合戦」で、淡谷のり子より目立とうとしたのだが、淡谷のり子の貫禄に押されて、淡谷のり子の引き立て役となってしまったのである。

慰問先で「別れのブルース」を歌う実話のネタバレ

「ブギウギ」の茨田りつ子が慰問先で、兵士のリクエストに応えて「別れのブルース」を歌うエピソードは実話です。

淡谷のり子は、シャンソンやジャズが敵性音楽として禁止されても、シャンソンやジャズを歌い続けていた。

このため、軍部から目を付けられ、皇軍慰問を命じられてしまう。

流石の淡谷のり子も軍部の命令には逆らえないが、好きな音楽を弾圧する軍からお金は貰いたくないので、無料奉仕として皇軍慰問に出ました。

そして、軍からお金を貰っていないので軍歌を歌う必要は無いと言い、淡谷のり子は皇軍慰問でも軍歌を歌わなかった。

しかし、「別れのブルース」は時局に相応しくないとして、発売禁止曲の筆頭に挙げられていたので、慰問先で歌う事はできない。

ところが、淡谷のり子は兵隊に大人気で、兵士が「別れのブルース」をリクエストすると、上官は席を外して、淡谷のり子に「別れのブルース」を歌わせたのだった。

茨田りつ子のモデル淡谷のり子の生涯

淡谷のり子は明治40年(1907年)8月2日に青森県青森市の呉服屋「大五阿波屋」を営む淡谷彦造の長女として生まれた。

淡谷家は非常に繁盛した一族で、淡谷彦造は分家ながら、呉服屋「大五阿波屋」も使用人30人を抱える繁盛店で、淡谷のり子は贅沢な暮らしをしていました。

しかし、淡谷のり子が3歳の時に大火事があり、大五阿波屋は焼けてしまい、淡谷家の本家も分家も全てを失ってしまい、父・淡谷彦造の放蕩も手伝い、店は倒産してしまう。

淡谷のり子は火事の後も、両親から離れて別荘に住む祖母に育てられ、贅沢な暮らしを続けていたが、両親と一緒に暮らす妹恨んでおり、その不満を晴らすため、お洒落を始めるのだった。

その後、淡谷のり子が小学校を卒業するころに両親と一緒に暮らすようになり、難関の森県立青森高等女学校へと進学する。

やがて、母親が上京することに決めたので、淡谷のり子と妹は母親と一緒に上京するのだった。

母親は東京で画学生をしている弟を頼って上京し、日暮里の借家を借りると、娘2人を音楽の教師にするため、淡谷のり子に東洋音楽学校の予科を受験させる。

淡谷のり子は青森高等女学校を中退して母親とともに上京したが、作家や新聞記者になりたかったので、音楽には全く興味が無く、口頭試験で他人事のように受け答えをして、ピアノ科へ入学することになった。

しかし、淡谷のり子は貧乏だったのでピアノなど買えず、圧倒的な練習不足からピアノ教師から才能を見限られ、声楽科への編入を勧められる。

声楽科への編入は非常時難しく、狭き門だったが、淡谷のり子は声楽家の教師・荻野綾子に才能を認められ、荻野綾子のレッスンを受けて、編入試験に合格して声楽科へと編入するのだった。

こうして、声楽科へと編入した淡谷のり子は荻野綾子の個人レッスンを受けるようになるのだが、食べるものにも困るような生活をしており、妹が栄養失調から失明の可能性がある眼病にかってしまう。

そこで、淡谷のり子が東洋音楽学校を休学して、ヌードモデルとして働き始めます。

当時はヌードモデルは貴重な存在で給料がよく、親子3人が生活出来るような仕事は他にありませんでした。

その後、淡谷のり子は画家・田口省吾の支援を受けて東洋音楽学校に復帰し、田口省吾の個人モデルとなる。

やがて、淡谷のり子はヌードモデルの最中に田口省吾に襲われてプロポーズをされるのだが、プロポーズを断り、5年間続けたヌードモデルの仕事を辞めるのだった。

さて、東洋音楽学校に復帰した淡谷のり子は、声楽科の教師・久保田稲子の個人レッスンを受けます。

久保田稲子はオペラ歌手リリー・レーマンの弟子で、淡谷のり子は厳しい特訓に耐え抜き、ハイ・ソプラノを手に入れ、卒業後のコンサートで「10年に1人のソプラノ」と評価されるのでした。

淡谷のり子は東洋音楽学校を卒業後も研究科に籍を置き、学生からの要望で大学のコンサートに出演してていたのですが、大学のコンサート料では生活が出来ず、昭和4年にレコード会社「ポリドール」に入社して、「久慈浜音頭」でデビューする。

昭和5年には浅草の「電気館」に出演したり、エノケン(榎本健一)の劇団にも出演するのだが、オペラ以外は低俗な音楽とされており、淡谷のり子は恩師の久保田稲子からも嫌われ、東洋音楽学校の卒業名簿からも除名されてしまうのだった。

その後、淡谷のり子はコロムビアへと移籍して、古賀政男作詞の「私此頃憂鬱よ」をヒットさせる。

さて、淡谷のり子はピアニストと結婚すれば歌の勉強になると考え、昭和6年9月にジャズピアニストの和田肇と結婚するが、和田肇は淡谷のり子に妻としての役割を求めたため、淡谷のり子は4年で離婚する。

このころ、無名時代の作曲家・服部良一が、淡谷のり子の曲を手がけるためにコロムビアに入社しており、淡谷のり子と服部良一のコンビは昭和12年6月に「別れのブルール」を吹き込んだ。

会社が時局に相応しくない歌として、全く宣伝してくれなかったので、「別れのブルール」は全く売れなかったが、満州でヒットしており、満州の人気が大阪へと波及し、日本でも大ヒットするのだった。

さて、子供の頃からお洒落を続けていた淡谷のり子は、付けまつげを付けて西洋風のメークをして、ドレスを着るようになっていた。

戦争の影響で贅沢が禁止され、庶民は国民服とモンペになっており、愛国婦人会や警察の標的となるが、淡谷のり子は化粧やドレスは歌手の戦闘服で、兵隊さんの鉄兜と同じだと言い放ち、化粧とドレスを続けた。

淡谷のり子は警察の取り調べを受けても、従わなかったので、始末書を書いて放免となるのだが、終戦までに約50枚の始末書を書いたという。

さて、他の歌手は歌手は生活のために軍歌や軍国歌謡曲を歌うようになるが、淡谷のり子は歌いたくない歌は歌わない主義なので、軍歌は歌わずにジャズやシャンソンを歌っていた。

しかし、軍部から皇軍慰問を命じられてしまいます。

軍部の命令は絶対なので、流石の淡谷のり子も軍部の命令に逆らうことが出来ず、皇軍慰問を引き受けるが、歌を弾圧する軍からお金を貰いたくないと言い、無料奉仕で皇軍慰問を引き受けた。

ただし、淡谷のり子は皇軍慰問に出ても、軍からお金を貰っていないので、軍歌は歌わずに、自分が歌いたい歌を歌っていた。

淡谷のり子の人気は絶大で、慰問先では兵士からリクエストされるのは「別れのブルール」や「雨のブルース」だった。

淡谷のり子は処分を覚悟で「別れのブルール」や「雨のブルース」を歌うのだが、上官は兵士たちのために、そっと席を外して、「別れのブルール」や「雨のブルース」を黙認するのだった。

やがて、淡谷のり子は戦後を迎えると、米軍施設の巡業をして、米兵の間で大人気となった。

さて、淡谷のり子は歌いたくない歌は歌わない主義を貫き、戦後はレコード会社を転々として、最後はフリーとなり、歌いたい歌だけを吹き込むようになる。

淡谷のり子はシャンソンを好んで歌うようになっており、戦後のシャンソンブームの波に乗り、NHKの紅白歌合戦に9度も出場した。

淡谷のり子は、非常に面倒見がよく、笠置シヅ子の歌手復帰に強力したり、子供時代の美空ひばりを風呂に入れたりしていた。

しかし、淡谷のり子はオペラの基礎から叩き込まれたことから、基礎の出来ていない歌手を批判しており、笠置シヅ子や美空ひばりが売れると、公然と笠置シヅ子や美空ひばりを批判するようになる。

やがて、歯に物着せぬ物言いで芸能界のご意見番として活躍するようになるのですが、懐メロブームの影響もあり、歌手として出演するのは懐メロ番組ばかりで、歌手としては過去の人という扱いを受けるよいうになってしまう。

しかし、淡谷のり子は昭和46年に、プロデューサーいずみたくの企画で、LPレコード「昔、一人の歌い手がいた」を発売し、64歳にして日本レコード大賞の特別賞を受賞して、第一線の歌手としての自信を取り戻すのだった。

そして、淡谷のり子は長年の功績が認められ、昭和47年に紫綬褒章を受章、昭和51年にはNHK放送文化賞を受賞、昭和54年には勲四等宝冠章などを受賞する。

しかし、淡谷のり子は、歌手として認められたわけではないので嬉しくはなく、こうした形式的な受賞には全く興味が無かった。

その後も淡谷のり子は精力的にコンサートを続けていたが、平成5年に脳梗塞で倒れて以降は第一線を退き、平成11年に死去した。92歳だった。

朝ドラ「ブギウギ」の登場人物のモデル一覧は「朝ドラ「ブギウギ」の実在のモデル一覧」をご覧ください。

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