ブギウギー茨田りつ子(いばらだ・りつこ)のモデルのネタバレ
NHKの朝ドラ「ブギウギ」に登場する歌手・茨田りつ子(いばらだ・りつこ/菊地凛子)のモデルのネタバレです。
ブギウギー茨田りつ子のモデル
朝ドラ「ブギウギ」の歌手・茨田りつ子(菊地凛子)は「別れのブルース」という歌でヒットを飛ばした人気歌手で、花田鈴子(趣里)は茨田りつ子に憧れて歌手を目指した。
やがて、花田鈴子は「スイングの女王」となり、「ブルースの女王」と呼ばれる茨田りつ子の強力なライバルになるのだった。
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ブギウギー茨田りつ子のモデルのネタバレ
茨田りつ子(菊地凛子)は「別れのブルース」を歌うので、実在のモデルは歌手の淡谷のり子です。
淡谷のり子は、明治40年(1907年)に青森県青森市で生まれた。
笠置シズ子が大正3年(1914年)に生まれているので、笠置シズ子が7歳年下である。
淡谷のり子は豪商「大五阿波屋」の娘としてに生まれたのだが、火事によって店が焼失したこともあり、破産して貧乏となる。
淡谷のり子は上京すると、声楽家を目指して東洋音楽学校の声楽科を志すが、校長から歌の実力不足を指摘され、東洋音楽学校のピアノ科に入学する。
しかし、淡谷のり子はピアノ科で歌の実力を認められ、東洋音楽学校の声楽科へと編入し、10年に1人のソプラノ歌手と評価されるようになる。
淡谷のり子は、卒業後も東洋音楽学校に残ってクラシック歌手として活動する一方で、生活のために流行歌手としても活動した。
やがて、淡谷のり子は無名時代の作曲家・服部良一に見出され、昭和12年に吹き込んだ「別れのブルース」がヒットして、「ブルースの女王」と呼ばれるようになる。
戦時中は、「別れのブルース」などは頽廃的として、警察から歌う事を禁じられたが、淡谷のり子は反骨心があったので命令には従わず、「別れのブルース」を歌ったので、山のような始末書を書いたという。
たとえば、上海慰問に行ったとき、慰問先の兵隊から頼まれて「別れのブルース」を歌ったエピソードが残っている。そのとき、上官はそっと席を外して黙認したという。
また、淡谷のり子はタンゴも歌っていたのだが、タンゴは親日国アルゼンチンの音楽だったので規制されず、戦時中はタンゴ歌手しても活躍した。
一方、笠置シズ子は服部良一に見出されて、「スイングの女王」として活躍していたが、ジャズが適性音楽になったため、笠置シズ子は敵性歌手に指定されており、戦地慰問には呼ばれず、国内で地方巡業や工場慰問を行っていた。
ジャズが禁止されても笠置シズ子は戦争末期までジャズを歌っており、淡谷のり子と一緒に舞台に立ったこともある。
戦後は歌手として活躍する一方で、笠置シズ子が「ブギの女王」とてい活躍するようになると、淡谷のり子は笠置シヅ子を批判したほか、美空ひばりが台頭すると、美空ひばりを批判して、芸能界のご意見番となり、審査委員として活躍するようになる。
晩年、淡谷のり子と笠置シズ子は和解をした。
そして、淡谷のり子は平成5年に脳梗塞で倒れ、平成11年9月22日に死去した。
朝ドラ「ブギウギ」の登場人物のモデル一覧は「朝ドラ「ブギウギ」の実在のモデル一覧」をご覧ください。
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