ブギウギー大和礼子(やまと・れいこ/蒼井優)のモデルは飛鳥明子

NHKの朝ドラ「ブギウギ」に出演する大和礼子(やまと・れいこ)のモデルのネタバレです。

ブギウギの大和礼子(やまと・れいこ)

朝ドラ「ブギウギ」の大和礼子(蒼井優)は、梅丸少女歌劇団(USK)の1期生で娘役として活躍し、梅丸少女歌劇団を牽引するトップスターとして君臨している。

大和礼子は、福来スズ子(趣里)が憧れる先輩で、花田鈴子は大和礼子から歌や踊りの精神を引き継いでいくことになる。

朝ドラ「ブギウギ」の第3週で、梅丸少女歌劇団を経営する会社「梅丸」が人員削減と減給を発表した。

すると、大和礼子はクビになった団員の復帰と減給の撤回を求めて嘆願書を提出し、「桃色争議」と報じられて話題となる。

梅丸が団員に好条件を出して争議団の内部分裂を仕掛けてきたので、大和礼子は福来スズ子(趣里)らを率いて山寺に立て籠もり、ボイコットを起こした。

最後は大和礼子と橘アオイ(翼和希)が「桃色争議」の責任を取って退団する代わりに、「梅丸」に嘆願を飲んでもらい、梅丸少女歌劇団を退団した。

その後、大和礼子は梅丸少女歌劇団でピアノを担当していた股野義夫(森永悠希)と結婚する。

大和礼子は腎臓を患っており、医師から出産を止められていたが、赤ちゃんを諦める事が出来ず、赤ちゃんの出産と引き換えに死去するのだった。

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ブギウギー大和礼子(蒼井優)のモデルは飛鳥明子

「ブギウギ」の大和礼子(蒼井優)のモデルは、候補が数人居るのですが、おそらくモデルは娘役スターの飛鳥明子(あすか・あきこ)です。

画像の左側が大和礼子で、右側がモデルの飛鳥明子です。

大和礼子とモデルの飛鳥明子
出典:朝ドラ「ブギウギ」など

飛鳥明子は明治40年(1907年)12月生まれで、大阪の道頓堀で発足した「松竹楽劇部」の1期生として入部した。

笠置シヅ子が大正3年(1914年)8月生まれで、昭和2年に「松竹楽劇部」に入部しているので、笠置シヅ子が7年下の後輩である。

飛鳥明子は医者の娘として生まれ、金蘭会高等女学校を卒業後、「松竹楽劇部」に入部して、スターとして活躍した。

飛鳥明子はバレエのトゥダンスを得意とし、笠置シヅ子も飛鳥明子のバレエは宝塚の先生よりも上手いダンスの神様と評価しており、バレエの実力は日本一とも言われた。

飛鳥明子の踊りは迫力があり、飛鳥明子が舞台の前方へ躍り出ると、最前列の客は体をのけぞらす程だったという。

笠置シヅ子は舞台の背後でスカートを上げてお花畑の役をしていたとき、飛鳥明子のダンスが見たいので、スカートを下げてしまい、先生から叱られていたという。

また、トゥシューズを履くときに小袖綿を詰めるのだが、飛鳥明子は笠置シヅ子らの5分の1くらいしか小袖綿を使わず、笠置シヅ子が小袖綿を沢山使ってトゥシューズを履いていると、「トゥは綿で立つのと違うで」「トゥダンスしていることが裸足で歩いているのと同じに見えなきゃトゥダンスの価値はない」と教えてくれたという。

水ノ江瀧子に影響を与える

飛鳥明子はトップスターになっても非常にストイックで、みんなよりも1時間早く練習場に来て、1人で練習をしていた。

このころ、男役は髪をまとめて演じており、どことなく不格好だったのだが、東京の男役スター水ノ江瀧子(ターキー)は、昭和5年に日本で初めて髪を切って男性役を演じて「男装の麗人」として絶大なる人気を博した。

その水ノ江瀧子が髪を切る切っ掛けとなったのが、トップスターなのに1時間前から来て1人で黙々と練習する飛鳥明子だったという説もある。

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モデルの飛鳥明子の見せ場は桃色争議

飛鳥明子の見せ場となるのは、松竹楽劇部で昭和8年に起きた労働紛争の「桃色争議(ももいろそうぎ)」である。

だから、「ブギウギ」の大和礼子(蒼井優)の見せ場も「桃色争議」となると思われるので、「桃色争議」について解説します。

飛鳥明子によると、松竹楽劇部の条件は、最初の2年間は給与が無く、その代わりにうんと勉強をさせてもらえる約束だったが、人によっては2~3ヶ月で舞台に立たされ、その特別手当が週に3円50銭、1日当たり50銭だったうえ、食事や交通費も生徒持ちだったという。

このころ、東京の小学校の教師の初任給が45円~55円、うな重が50銭、うどん1玉5銭だったので、15円あれば生活はできないこともないのだが、交通費だけではなく化粧道具まで自腹だったので、1日50銭では生活するのは苦しいようだ。

飛鳥明子が具体的にどらくらい貰っていたのかは不明だが、飛鳥明子や笠置シヅ子は「女優」ではなく「生徒」なので、ブロマイドが売れても、映画に出演しても、お金は松竹に入るので、トップスターになっても金銭的には楽では無かったようだ。

このため、飛鳥明子らは昭和8年に改善要求を松竹に出したが、認められなかったので、ストライキを起こして高野山に立て籠もった。

松竹はストライキに対して強硬姿勢を取ったが、新聞が「桃色争議」として報じて世間が飛鳥明子らの味方をしたので、客入りが悪くなってしまったため、改善要望を受け入れてストライキを終わらせた。

こうして、「桃色争議」はストライキ側の勝利となったが、飛鳥明子は解雇された。

しかし、ストライキの和解案で、飛鳥明子を教師として迎え入れるように要望が出ていたため、飛鳥明子は解雇後、松竹楽劇部に教師として復帰し、振り付けを担当した。

ところが、それから4年後の昭和12年8月に飛鳥明子は29歳の若さで死亡した。

これが世に言う「桃色争議」であり、「ブギウギ」の大和礼子(蒼井優)のモデルが飛鳥明子なら、大和礼子は「桃色争議」で争議団のリーダーを務めるだろう。

なお、「桃色争議」について、もう少し詳しく知りたい方は、下の「ブギウギー桃色争議のネタバレ」をご覧ください。

ブギウギー桃色争議のネタバレ

朝ドラ「ブギウギ」を楽しむうえで、「桃色争議」について知っておく必要があると思うので、「桃色争議」のネタバレをしておきます。

松竹の少女歌劇は、映画を上映するためのアトラクションとして始まったので、映画と密接な関係があった。

大正時代の映画は無声映画だったので、弁士が場面や台詞を解説し、楽士が音楽を付けていた。

しかし、昭和に入り、技術が発達したため、トーキー映画(発声映画)が登場し、日本語字幕も付けられるようになったため、映画館で雇っていた弁士や楽士は不要になった。

さらに、昭和恐慌の影響も重なって映画館に客が入らなくなったこともあり、映画館が不要になった弁士や楽士の人員整理を始めた。現在でいうリストラクチャーである。

これに対して、弁士や楽士は、動労組合に入り、「反トーキー運動」を起こしたのだった。

このようななか、映画館の人員整理に成功した松竹が、昭和8年6月に東京の「松竹少女歌劇部(SSK)」の男性音楽部員29人の解雇と全員の減給を発表した。

すると、松竹少女歌劇部の女生徒が水ノ江瀧子をリーダーにして、ストライキを起こしたのである。

水の江瀧子によると、音楽部員は安い給料で1日に3ステージも演奏しており、食事の時間も無いうえ、音楽ボックスは埃っぽかったので病気になる人も居たが、病気になつても見舞金も貰えず、変わりが見つかればいつ解雇されるかも分からない不安定な状況で働いており、家族を養うのもままならなかったという。

水の江瀧子らは、音楽部員を支援するためにストライキを起こしたので、自分たちの改善要求は簡単なものだったが、本格的な左翼が関与してきたため、改善要求が大きくなってしまったのだという。

一方、大阪の松竹楽劇部でも、東京でのストライキを受けて、女生徒らが改善要求を出したが、松竹が拒否したので、飛鳥明子をリーダーとしてストライキに入った。

その後、東京の水の江瀧子らは、松竹からの切り崩し工作を受けて、副リーダーの津阪織江(オリエ津阪)が会社側に寝返ってしまったため、神奈川県の湯河原温泉へと逃れて旅館に籠城する。

すると、大阪の飛鳥明子らも、会社からの切り崩し工作を避けるために、高野山へと登って籠城したのだった。

松竹は強硬姿勢を続けていたが、新聞が「桃色争議」として報じたため、世間が飛鳥明子らに同情して、松竹の客が減った。

そこで、松竹は改善要望の一部を受け入れて和解し、ストライキを終わらせた。

東京の松竹は、「桃色争議」の処理として、水の江瀧子を解雇して、津阪織江をスターにしようとしたが、ファンの反感を買ったので、水の江瀧子をスターに復帰させた。

大阪の松竹は、飛鳥明子を解雇したが、和解の条件により、飛鳥明子を教師として迎え入れた。

こうして、飛鳥明子は松竹楽劇部に復帰して振り付けを担当し、松竹楽劇部でギターを弾いていた片野実雄と結婚し、子供を授かるが、結核に感染しており、昭和12年8月15日に29歳の若さで死亡した。死因は腎臟炎だった。

飛鳥明子の実家は紀州徳川家の侍医の家系で、飛鳥明子の結核の治療を巡って飛鳥明子の嫁ぎ先の片野家と対立しており、片野家とは絶縁になったという。

なお、朝ドラ「ブギウギ」のモデル一覧は「朝ドラ「ブギウギ」の実在のモデル一覧」をご覧ください。

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