朝ドラ「ブギウギ」にも登場?服部良一とジャニー喜多川の関係のネタバレ
朝ドラ「ブギウギ」にジャニーズ事務所のジャニー喜多川が出演する可能性が指摘されていたので、服部良一とジャニー喜多川の関係、大阪松竹歌劇団とジャニーズ事務所の関係についてネタバレしておきます。
服部良一とジャニー喜多川の関係
朝ドラ「ブギウギ」のモデルは大阪松竹歌劇団(OSK)出身の歌手・笠置シズ子で、服部良一は作曲家で笠置シズ子にジャズやブギの曲を提供して、笠置シズ子を「スイングの女王」「ブギの女王」と呼ばれるほど活躍させる存在である。
さて、ジャニー喜多川が朝ドラ「ブギウギ」に登場するのであれば、戦後の昭和25年に笠置シズ子と服部良一がアメリカ巡業した時である。
このとき、笠置シズ子らの通訳を務めたのが、アメリカ・ロサンゼルスに住んでいたジャニー喜多川だったのである。
実は、笠置シズ子のモノマネとして人気を得ていた美空ひばりが、笠置シズ子を出し抜いて、1ヶ月前にアメリカ巡業を行っており、ジャニー喜多川は美空ひばりのアメリカ巡業でも通訳を務めている。
ジャニー喜多川は、その後、朝鮮戦争に従軍して来日し、除隊後は日本のアメリカ大使館で職員として勤務していた。米軍と自衛隊の通訳を務めていたようだ。
ジャニー喜多川は日本に来てからも、服部良一から可愛がられており、服部良一の息子なども含めて、服部家とは親密な関係にあったようだ。
そのころ、ジャニー喜多川は、少年団野球チーム「ジャニーズ」を作っており、ミュージカル映画「ウェストサイド物語」に感銘し、昭和37年(1962年)に少年団野球チーム「ジャニーズ」から美少年4人を選抜して「初代ジャニーズ」を結成した。
初代ジャニーズは芸能プロダクション「新芸能学院」に在籍し、渡辺プロダクションを窓口にして芸能活動を開始することになる。
「新芸能学院」の社長は名和太郎で、名和太郎の妻は真砂みどりだった。
真砂みどりは、大阪松竹歌劇団(OSK)の出身で、朝ドラ「ブギウギ」のモデル笠置シズ子の後輩である。
真砂みどりが京マチ子と同期生という情報が正しければ、真砂みどりは昭和11年に大阪松竹歌劇団に入団したことになる。
笠置シズ子は昭和3年に入団しているので、真砂みどりは笠置シズ子の8年後輩だ。
笠置シズ子が大阪松竹歌劇団から東京の「松竹歌劇団」へ移籍するのが昭和13年なので、笠置シズ子と真砂みどりは大阪松竹歌劇団に在籍していた時期が重なっている。
さて、ジャニー喜多川の姉・メリー喜多川も戦後の一時、大阪松竹歌劇団に在籍しており、真砂みどりはメリー喜多川の先輩にあたる。
ジャニー喜多川がメリー喜多川のツテを頼って、初代ジャニーズの事務所を「新芸能学院」に選んだのかは不明だが、初代ジャニーズは「新芸能学院」からスタートしたのである。
このとき、「新芸能学院」の名和太郎と妻・真砂みどりは、ジャニー喜多川が連れてきた美少年4人を見て、少女歌劇風に仕込めば売れるのではないかと考えた。
当時は歌って踊れる男性アイドルが存在しなかったので、この思惑が当たり、初代ジャニーズは人気となり、現代のジャニーズに繋がっていく。
つまり、ジャニーズの根底には、大阪松竹歌劇団(OSK)のような少女歌劇の要素があったのである。
さて、初代ジャニーズは色々とあり、昭和35年に新芸能学院から独立する形でジャニーズ事務所が正式にスタートする。
ジャニーズ事務所として独立後も渡辺プロダクションの支援を受け、初代ジャニーズは順調に仕事をこなしていったようだ。
また、ジャニー喜多川は服部良一からも可愛がられてので、ジャニーズ事務所に成功の影には服部良一の存在もあるのかもしれない。
ジャニー喜多川と服部家は深い繋がりがあったようで、ジャニー喜多川は服部良一に感謝しているし、服部良一の子供がジャニーズ関連の仕事をしたこともあり、服部良一の孫がジャニーズJr.で活動しているという噂も残っている。
このように、ジャニー喜多川と服部良一の関係から、朝ドラ「ブギウギ」にジャニー喜多川をモデルとした人物が登場するのではないかという説がある。
「新芸能学院」の真砂みどりやメリー喜多川が大阪松竹歌劇団(OSK)の出身で、初代ジャニーズは少女歌劇の要素を取り入れた点から考えても、朝ドラ「ブギウギ」にジャニー喜多川が登場しても不思議ではない。
ただ、昭和25年に笠置シズ子と服部良一がアメリカ巡業したエピソードは、美空ひばりとの対立がメーンとなるエピソードなので、ジャニー喜多川をモデルとした人物が登場する可能性は低いような気がする。
なお、朝ドラ「ブギウギ」のモデルや実話については「朝ドラ「ブギウギ」の実在のモデル一覧」をご覧ください。
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